コーチ・スコアラー時代
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西武一軍打撃コーチ補佐時代、アレックス・カブレラが非常に慕い、任期満了でコーチを退任した時に「僕も辞める」と言った。 ダイエーのスコアラーとしてはフリオ・ズレータを発掘。スコアラーという肩書きではあったが、王貞治監督から打撃補佐的な役割を依頼され、金森はしばしばグラウンドに出ては選手の練習を手伝った。2003年春季キャンプでは、城島健司や井口資仁にアドバイスすることも多く、その後2人の打撃開眼に大きな役割を果たした。なお、城島とはその後も強い師弟関係で結ばれ、城島が出場した日米野球や佐世保自主トレなどにも金森は必ず姿を見せている。 指導は基本的にボールを手元まで引き付けて、脇を締めて腰回転を使って打つというものであり、藤田平は赤星憲広や藤本敦士のような非力な打者にまで当てはめているとして批判した。伊勢孝夫は藤田とは逆に、「このスイングはアベレージヒッターには適しているが、長距離タイプには向かないように思う」と評している。金森の被死球の多さはこの打ち方も一つの要因であると言われている。和田一浩は「今でも北陸遠征に行った時は、食事を一緒にします。弟子はどこまでいっても弟子ですので」と語る。 ロッテでは相手投手が代わった時などに、次打者の元へ向かいアドバイスすることがよく見られた。
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