コレヒドール攻略
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「フィリピンの戦い (1941-1942年)」の記事における「コレヒドール攻略」の解説
バターン半島の沖合いのコレヒドール島はスペイン統治時代からマニラ湾の入口を守る要塞として整備されていた。アメリカはワシントン海軍軍縮条約の制限が切れた1936年から補強工事を再開し、30センチカノン砲8門、30センチ榴弾砲12門、隣のフライレ島に配置された36センチ砲4門をはじめとする重砲群、巨大な地下室、発電所、電車まで備えた近代的要塞を構築していた。守備兵力はアメリカ第4海兵連隊を中心に、バターン半島から移動してきた部隊など12,000であった。 4月14日、バターン半島先端に進出した重砲兵第1連隊の24センチ榴弾砲が砲撃を開始した。互いに海越しに重砲を撃ち合う砲撃戦はしばらく続いたが、19日午後、24センチ徹甲榴弾の1発が要塞の弾薬庫に命中し大爆発を起こした。これで砲撃戦の決着はついた。 日本軍は5月5日の夜に上陸作戦を実施し、歩兵第61連隊の2個大隊と戦車第7連隊の一部がコレヒドール島の北東端に取り付いた。守る米比軍の砲火は激しく、一部は逆襲に出たものの、日本軍は橋頭堡を確保した。6日正午、マッカーサーの後任の司令官に就いていたウェインライト中将(3月22日に昇進)が降伏を申し入れた。本間中将は、降伏はフィリピン全土の米比軍が伴わなければならないと主張し、ウェインライト中将もこれを受諾した。翌日までにコレヒドール島の全軍が降伏した。
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