コブルの支配 (1870-1890)
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「ダル・アル・クティ」の記事における「コブルの支配 (1870-1890)」の解説
1860年代後期から1870年代前期まで、尊敬されていた商人であり、 ファキーフでもあったコブルがダル・アル・クティの支配者となった。 (いくつかの情報源に基づくと、ジュグルトゥムの息子とされた). コブルの富と権力は恐らく、象牙の貿易によって得られたものであった。彼が支配者であった間、ワダイ帝国の騎兵がダル・アル・クティに現れ、コブルの支配地域に隣接するンドゥカやバンダから奴隷や貢物を徴収した。コブルは北方に広がる広大なイスラム圏とも、非イスラム教徒である隣人のンドゥカとも良い関係を保つように気を配っていた。ダル・アル・クティは限定的に奴隷貿易に参画したが、コブルの時代には大規模な奴隷貿易は行われなかった ダル・アル・クティにとって最大の脅威となったのは、現在の中央アフリカ共和国の中央部と北東部で活動し、多くのバンダ人を捕らえていたスーダン人の司令官でもあり、奴隷商人でもあったラビーフ・アッ=ズバイルであった。1874年にラビーフの部下がコブル治める首都のチャを占領し、翌年にはダル・アル・クティはバンダ人から国土の反対側の側面を攻撃された。1880年、ラビーフはバンダ人を攻撃するため、ダル・アル・クティの国土を自由に通行させてもらう見返りに、ダル・アル・クティへの攻撃を停止することに同意した:112
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