グリマルディ家の出発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:14 UTC 版)
「グリマルディ家」の記事における「グリマルディ家の出発」の解説
そのころ、ジェノヴァ共和国の都市貴族の家柄として、グリマルディ家は出発した。 ジェノヴァ共和国は、神聖ローマ皇帝である、ハインリヒ6世から1191年にこの土地を与えられた。そして、1228年に現在の「モナコ市」を建設したのであった。 それから100年ほどのちのグリマルディ家初代当主である。そして、グリマルディは、ギベリンが占拠していたとなった。そのころ、ジェノヴァ共和国の都市貴族の家柄として、グリマルディ家は出発した。オットー・カネッラの子孫であり、彼の長男であるグリマルド・カネッラから名前をとったグリマルディ家は教皇派(ゲルフ)ジェノヴァ人の中で古くから優勢であった一家である。彼らは教皇派と皇帝派の派閥争いから逃れるために、フィエスキを含む、他の様々な教皇派の家を引き連れてモナコに来ていた。 それから100年ほどのちの1297年、グリマルディ家初代当主であるフランソワ・グリマルディは、ギベリン(皇帝派)に占領されていたモナコの要塞に、フランシスコ会の修道士姿に変装し法衣の下に武装して侵入した。そして、グリマルディらは、ギベリンが占拠していた要塞の占拠に成功した。グリマルディは、現在のモナコ公家の始祖となった。そのため、グリマルディは、「狡猾な男」とあだ名される。フランチェスコ・グリマルディは、ジェノヴァ共和国の主権の下で、1297年に、グリマルディ王朝を始めることとなった。しかし、実際にはフランソワ(フランチェスコ)は4年後にはモナコの地を追われている。グリマルディ家のモナコ支配が固まるのは15世紀初めであり、現在のグリマルディ家はフランチェスコの直系子孫ではない(Anne Edwards The Grimaldis of Monaco)。 その後1346年にマントン、1355年にロクブリュヌ=カップ=マルタンに支配を広げた。1338年には英仏海峡での軍事行動に、フランスやジェノヴァの軍隊とともに、カルロ・グリマルディ率いるモナコ軍艦が参加した。その際に手に入れた、サウサンプトンからの略奪品はモナコに持ち帰られ、公国の繁栄に寄与した。
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