グウォグフ諸公との戦争とは? わかりやすく解説

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グウォグフ諸公との戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/28 05:08 UTC 版)

ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の記事における「グウォグフ諸公との戦争」の解説

ボレスワフ3世壮大な政治的野心公国財政疲弊させ、ボヘミア王位の要求ばかりか自分自身の公位を維持することも危うい状況陥った1311年地元貴族圧力屈したボレスワフ3世は自らの公国分割して2人の弟ヘンリクヴワディスワフ領地分与することになり、公国ヴロツワフレグニツァブジェクの3地域分けられた。長子として、ボレスワフ3世には自分統治する公国優先的に選択する権利があった。ところが彼が自領に選んだのは最も小規模かつ貧しブジェクであり、この出来事世人驚かせた。ボレスワフ3世はおそらくボヘミア王位を巡る戦争継続したい思っており、ブジェク領する公に与えられる金銭的な補償費用あてよう考えてたらしい。しかし当て外れボレスワフ3世ヴロツワフ公国獲得した次弟ヘンリク6世政治的優位奪われることになった。 はじめ、ボレスワフ3世はこの状況甘んじているように見えたが、翌1312年には補償金支払わなかったことを理由に、末弟ヴワディスワフからレグニツァ公の座を取り上げた1312年ボレスワフ3世と弟ヘンリク6世はマウォポルスカの支配者ヴワディスワフ1世短躯公、母方叔母ヤドヴィガの夫)と同盟を結び、連合軍組織してグウォグフ諸公攻めた。この戦争口実は、ボレスワフ3世の父ヘンリク5世が、グウォグフ公兄弟父親であるヘンリク3世によって死に追いやられたことに対す弔い合戦だというものだった戦争1312年から1317年まで5年続きヴワディスワフ1世ヴィエルコポルスカのほぼ全域グウォグフ諸公から奪ったが、同盟者であるレグニツァ公兄弟ウラスヘンリク6世)、ヴォウフとルビョンシュ(ボレスワフ3世)を獲得するとどまった。 この戦勝の後間もなくボレスワフ3世ヨハン・フォン・ルクセンブルクを王に戴いていたボヘミア対し王位請求再開させようとした。しかし、1321年から1322年にかけて、ヨハンイタリアドイツ旅行している間にボヘミア統治任されるという条件納得し要求取り下げたシロンスクでは、ボレスワフ3世とその同盟者達は1321年よりグウォグフ諸公対す戦争再開したボレスワフ3世ヘンリク6世オポーレ公ボルコ2世、及びポーランドとなったヴワディスワフ1世は、グウォグフ諸公対す同盟結成ボレスワフ3世勝利貢献した1323年8月10日ヴロツワフにおいて和約結ばれオレシニツァ公コンラト1世はナムィスウフ公国及びナムィスウフの要塞、ブィチナとクルジュボルクをボレスワフ割譲した

※この「グウォグフ諸公との戦争」の解説は、「ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の解説の一部です。
「グウォグフ諸公との戦争」を含む「ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の記事については、「ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の概要を参照ください。

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