カルマル同盟時代
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「デンマークの歴史」の記事における「カルマル同盟時代」の解説
1375年、ヴァルデマー4世が死去したとき、彼には息子がいなかった。そのため、ヴァルデマーの娘マルグレーテ(ノルウェー王ホーコン6世の后)の息子オーロフが、まだ幼いながらデンマーク国王オーロフ2世として即位した。彼が、父王の死に伴いノルウェー王位も継承したため、デンマークとノルウェーの同君連合が形成された(後のデンマーク=ノルウェー)。マルグレーテは両国の摂政をつとめて実権を握り、息子オーロフがわずか17歳で急逝するという悲劇はあったものの、新たに擁立したエーリクが1396年に北欧三国の王位についた。翌1397年、スウェーデン南境のカルマルで連合王としての戴冠式が行われ、ここに正式にカルマル同盟が成立した。 カルマル同盟をスウェーデンが受け入れた背景には、当時スウェーデンで中央集権化を図ったアルブレクト王を、スウェーデンの高位聖職者や貴族が拒否したことがある。すなわち、スウェーデン側は、中央集権化を拒み分権的な体制を維持するためにカルマル同盟に参加したといえる。しかしもう少し広い視点に立てば、やはりハンザ同盟に対抗するために北欧諸国が結集したという見方が有力であろう。このときから北欧諸国はハンザ同盟と激しく争うことになる。 15世紀半ば、一時的にデンマーク・ノルウェーとスウェーデンが異なる王を選出したことがあった。しかし、スウェーデン王が中央集権化を図ると、やはり貴族の反発によってその地位を追われ、デンマーク王クリスチャン1世がスウェーデン王として選出されている。したがって、仮にデンマーク王がスウェーデンにおいて本格的に支配を強化しようとすれば、スウェーデン側が反発するのは当然であった。
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