オークリッジでの研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 17:11 UTC 版)
「アルビン・ワインバーグ」の記事における「オークリッジでの研究」の解説
1945年、ウィグナーはテネシー州オークリッジにあるクリントン研究所の研究部長に就任した。クリントン研究所は当時、約800人のスタッフを抱えていた。ウィグナーは、弟子のゲイル・ヤング、キャサリン・ウェイ、ワインバーグをオークリッジに連れて行った。1945年5月にオークリッジに最初に到着したワインバーグは、1946年に物理学部門の責任者となった。しかし、1947年の初めに原子力委員会がマンハッタン計画から研究所の運営を引き継ぐと、ウィグナーは新しい環境での経営者としての役割に適さないと感じ、1947年の夏の終わりにオークリッジを去り、プリンストン大学に戻っていった。 クリントン研究所の運営は、1947年5月にモンサント社からシカゴ大学へ、さらに12月にはユニオンカーバイド社へと引き継がれた。原子力委員会の影響力の強い一般諮問委員会(委員長:ロバート・オッペンハイマー)は、原子炉に関する全ての作業を、シカゴ近郊の冶金研究所の後継施設であるアルゴンヌ国立研究所に集中させるよう勧告した。また、ニューヨーク近郊に新設されたブルックヘブン国立研究所との間で、スタッフや資源の奪い合いが起きていた。1948年1月にオークリッジ国立研究所(ORNL)と改称された同研究所では、研究部長を引き受けてくれる人がいなかった。最終的に1948年3月、ユニオンカーバイド社の取締役代理であるネルソン(バニー)・ラッカーがワインバーグに研究部長を依頼するまでに、少なくとも6人がこの仕事を断っていた。 ワインバーグはその後、1955年に所長に就任した。ワインバーグは、ORNLの部門情報会議では最前列に座ることが多く、科学的な話をした後には、鋭い質問を最初にすることが多かったという。若い科学者が初めての発表をするときは、怖くもあるが、刺激的でもあった。どうやって全ての会議に出席する時間を確保していたのかと聞かれたワインバーグは、「当時はDOEがありませんでしたからね」と冗談めかして答えている。
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