オベ・アンダーソンの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 19:36 UTC 版)
「トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパ」の記事における「オベ・アンダーソンの時代」の解説
1970年代に国際ラリー活動を模索していたトヨタ第七技術部企画部長の難波江延治は、毎戦日本からチームを出すのはコストが大きすぎるため、安易に上層部が撤退を決めてしまわないよう、欧州チームと契約し支援するかたち(セミワークス)で参戦することを思いついた。そこでスウェーデン出身のラリードライバー、オベ・アンダーソンのプライベートチームである「アンダーソン・モータースポーツ」の活躍に目をつけ、1972年より資金・技術支援を開始。「チーム・トヨタ・アンダーソン」と名乗り、1973年に開幕したWRC(世界ラリー選手権)に参戦した。 しかし翌1974年にオイル・ショックの影響でトヨタはモータースポーツ活動を休止。第七技術部は解散の憂き目に遭い、アンダーソンも最後通告を受けるため日本に招致された。しかし面会直前、欧州でトヨタのラリー活動を推進してきた福井敏雄の必死の説得で社長の豊田英二は翻意し、アンダーソンにトヨタ自工の資材を託し、自販が資金提供するというかたちで参戦を継続することになった。さらにベルギーからドイツ・トヨタのお膝元に工場用地を用意し、より手厚い支援を行った。結果的に、難波江の読みが意外にも早く当たった形になった。 1975年より正式にトヨタの公認を受け、チーム名を「トヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) 」と名乗る。カローラレビンで参戦し、同年の1000湖ラリーでトヨタワークスとしてのWRC初優勝を獲得した(トヨタ車自体の初優勝は1973年アメリカで、プライベーターのウォルター・ボイスが記録)。 1979年、チームの拠点をベルギーのブリュッセルからドイツのケルンに移転し、「アンダーソン・モータースポーツGmbH」を設立する。レビンの後はセリカを使用し、年数戦のWRC参戦を続けた。
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