オウム真理教・関係知識人との対立
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「ゴーマニズム宣言」の記事における「オウム真理教・関係知識人との対立」の解説
1989年に起きた坂本堤弁護士一家殺害事件では、漫画上で当初は名指しこそしなかったものの、オウム真理教を激しく追及。これに対しオウム真理教側は自らの存在を厳しく批判する小林の存在を恐れ、様々な口実を作って自らの施設へ単独で誘い込もうと図るが小林側の警戒心は強く実現しなかった。遂には山形明らがVXガスによる暗殺を試みる実力行使に出るが失敗に終わる。これは後にオウム真理教への司法の追及が進むうちに発覚した。この事件は当時の新聞等で大きく掲載され話題を呼んだ。しかし小林は、それすら「世界初暗殺されかかった漫画家」とネタにしつつ被害を訴えていた。 1995年、『SPA!』誌上でのオウム真理教擁護の動きに対し、靍師一彦編集長や宅八郎、松沢呉一らと対立。オウムへの疑念と警戒を強める小林に対し『SPA!』本誌は宅八郎と上祐史浩とのインタビューを載せるなど雑誌内での両側の意見の乖離が現れていたのが連載を終了することになった原因である。当時の連載内容によると、小林は靍師と電話で話し「もし靍師さんの家族がオウムに殺されても、オウムのインタビューを載せるんですか」と聞いたところ、靍師は「載せる。それがジャーナリズムだ」と答えたという。この一件を契機として、小林は靍師と決裂した。
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