エースパイロットへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 15:38 UTC 版)
「ボジダール・ペトロヴィッチ」の記事における「エースパイロットへ」の解説
短い入院の後、1937年3月に、ボスコは爆撃機パイロットとして復帰するも、彼自身は再び戦闘機パイロットに戻りたいと願っていた。そこで共和党の空軍司令官に彼はこの本音を打ち明けると、この司令官はボスコにカルタヘナでの訓練を持ちかけた。このカルタヘナの地にはソビエトから派遣された義勇軍がおり、ボスコはソビエトのパイロットからI-15戦闘機の操縦法を学んだ後、6月2日にHe51を1機撃墜し、戦闘機パイロットとしての再起の道を歩んでいく。 彼の部隊はその後、マドリードに移動、7月6日に彼は僚機と共にコンドル軍団のDo17を撃墜する。その日の夜と、翌日にも彼はCR.32を一機ずつ撃墜し、次々にスコアを伸ばしていった。7月12日の朝には、ボスコはHe111をソビエト軍パイロット共に撃墜し、公認撃墜数は4機目となる。 しかし、この日の夜は地獄となる。12日の午後5時、マドリードに迫った反乱軍であるナショナリスト空軍機を迎撃するために、ボスコはソビエト人パイロットに混じって出撃。この激しい戦闘中にナショナリスト空軍のトップエースであるホアキン・ガルシア=モラトの機から攻撃を受け、ボスコの乗機は故障。機体の制御が利かないまま、地上に激突、彼は戦死した。しかし、この夜戦でCR.32を1機撃墜しており、エースパイロットの仲間入りを果たしている。彼の最終スコアは、公認撃墜数が5~7機とされている。非公式の撃墜数を加えると、8機撃墜したことになる。
※この「エースパイロットへ」の解説は、「ボジダール・ペトロヴィッチ」の解説の一部です。
「エースパイロットへ」を含む「ボジダール・ペトロヴィッチ」の記事については、「ボジダール・ペトロヴィッチ」の概要を参照ください。
- エースパイロットへのページへのリンク