バー・モウ
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| バー・モウ ဘမော် |
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| 任期 | 1943年8月1日 – 1945年3月27日 |
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| 任期 | 1943年8月1日 – 1945年3月27日 |
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| 任期 | 1937年 – 1939年 |
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| 出生 | 1893年2月8日 |
| 死去 | 1977年5月29日(84歳没) |
| 出身校 | ラングーン・カレッジ (B.A.) カルカッタ大学 (M.A.) ケンブリッジ大学 (LL.M.) ボルドー大学 (Ph.D.) |
| 配偶者 | キン・マ・マ・モウ |
バー・モウ (ビルマ語: ဘမော်, 発音 [ba̰ mɔ̀]; ラテン文字転写:Ba Maw、1893年2月8日 - 1977年5月29日)は、ミャンマーの独立運動家、政治家。名はバー・モー、バーモウ、バモウ、バモーとも表記される。
生涯
経歴
英領インドビルマ州時代のミャンマーの、エーヤワディ地方域マウビンにある裕福な家庭に生まれた。バー・モウの生家は法律家や学者を多数輩出するモン族の名門出身で、アルメニア人の血が入っているとも、ポルトガル人の血が入っているとも伝えられる[注釈 1]。人種的に「ユーラシアン」に分類され、仏教徒だったが、その出自からキリスト教徒ではないかと疑われることもあった。ミャンマー語、英語、フランス語、モン語、タイ語に堪能で、自分の容姿に非常に自信を持っており、虚栄心が強く、自ら着る服を自分でデザインしていた[1][2][3]。
父のキー・シュエは英仏語に堪能であり、コンバウン朝ビルマの外交官として1870年代に欧州への駐在勤務を経験し、またコンバウン朝最末期に国王の家庭教師だったマーク博士の助手を務めた。バー・モウの兄バー・ハン博士は辞典編纂者・法律家・法学者であり1957年から58年までビルマ法相を務めた[要出典]。
バー・モウはラングーンで中等教育及び学部教育(ラングーン・カレッジ)を1913年に卒業後、ラングーン官立高校及びABM学院で教員として数年間働いた[要出典]。教員を退職した後はカルカッタ大学修士課程に進学し、1917年に同大学で修士号を取得した後、ラングーン大学の最初の英語教員として数年間教鞭を執った[要出典]。その後大学を退職してイギリスに留学しケンブリッジ大学およびグレイ法曹院を卒業後、1923年にイギリスの法廷弁護士資格を取得した。その後、フランスのボルドー大学に留学し、仏教神秘主義とキリスト教神秘主義を比較した思想史にに関する博士論文をフランス語で書き、1924年にミャンマー人として初めて博士号を取得した[3]。
英領ビルマ初代首相
その後、ミャンマーに帰国してラングーンで弁護士を開業し、1926年4月5日、宝石商の娘キンママモウと結婚、生涯で3男4女をもうけた[4]。1931年に反英運動指導者サヤー・サンの弁護人に担当して愛国的弁護士として名声を高め、1932年、立法参事会(植民地議会)下院選挙に立候補して当選、1934年には教育大臣に就任した。1936年の選挙には貧民党(ウンターヌ)という選挙を率いて再び下院選挙に当選、アーチボルド・コックレイン総督によって、1935年にたビルマ統治法により英領インドから分離された、英領ビルマ初代首相に任命された[5]。
しかし、バー・モウの政権は少数連立政権であり、何度も内閣不信任案を提出され、非常に不安定だった。また、1938頃年には大規模な反インド暴動、タキン党が扇動したビルマ中部のチャウとイェナンジャウンで油田労働者たちによるストライキ、農業改革を要求する農民デモ、アウンチョーというヤンゴン大学の学生がイギリス騎馬警察に撲殺された学生デモ、僧侶を含む14人が射殺され、19人が負傷したマンダレーのデモなどが頻発し(1300年革命[注釈 2])、対応に苦慮した。そして1939年2月16日、ついに内閣不信任案が可決され、バー・モウは首相を辞任せざるをえなくなった[5]。
下野したバー・モウはタキン党と組んで大衆反英組織自由ブロックを結成。欧州系議員の造反により、首相を辞職せざるをえなくなったことから、バー・モウは一転反英に転じ、過激な反英演説を展開するようになった。しかし、1940年8月、ウー・ヌらとともに治安を乱した容疑で逮捕投獄された[5]。
ビルマ国国家元首
1942年6月、日本軍[注釈 3]がミャンマーに侵攻してきた混乱の最中、バー・モウは刑務所から脱出したが、日本軍から日本占領下のミャンマーの統治を任すことができる人物として目をつけられた。のちにバー・モウは日本に協力した理由を「アウンサンらから、ビルマの人々を戦争の惨禍から救うためには、私に国家の運営を任せるしかないと主張したからだ」と述べている[6]。
そして、1943年8月1日、ビルマ国の独立が宣言され、バー・モウは国家元首(Naingandaw Adipadi)兼首相に就任した。「Naingandaw Adipadi」という言葉は、ミャンマー語では「最高権力者」「総統」の意味合いがあるが、1943年8月17日付の国家元首府の通達で、誰でもバモオと会う際は、「事前に国家元首府に申請すること」「上品な服装で臨むこと」「国家元首の部屋に入る際は丁寧にお辞儀をし、国家元首によって座ることを許されるまでは立っていること」「会見を終えて帰る際は、丁寧にお辞儀をし、国家元首が背中を見せるまではそのまま後ろ向きに下がること」と義務づけられていた。バー・モウはまるでコンバウン朝の国王のように振舞っていたと伝えられる[6]。
バー・モウは、日本に認められた「合法」的枠内に限定されていたとはいえ、ミャンマー語の公用化推進、行政区画の簡素化、国軍独自の軍法作成など精力的に改革に取り組んだ。また、日本軍の主権侵害には強く抗議し、必ずしも日本の言いなりではない側面もあった。1943年11月4日・5日に東京で開催された大東亜会議にも出席したが、その際、サイゴンで台湾に向けて乗り換えた飛行機が不時着して、九死に一生を得る経験をしている。のちにバー・モウは、大東亜会議が1955年のアジア・アフリカ会議の精神を先取りしていたと評価している[6]。
しかし、1944年3月から7月にかけて展開されたインパール作戦が失敗に終わると、日本の戦局は悪化の一途を辿り、同年4月25日、バー・モウは、南方軍ビルマ方面軍参謀副長・磯村武亮の教唆を受けた参謀部情報班所属の浅井得一に暗殺されそうになったが、護衛していた兵士が警戒してことなきを得た[7]。同年11月にはまた来日し、同月15日に昭和天皇と謁見、勲一等旭日桐花大綬章を受与された[8]。
1945年3月27日、アウンサン率いる反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が抗日蜂起を開始。バー・モウはAFPFLがクーデターを抗日闘争を画策していた事実を薄々把握していたと伝えられるが、日本軍に伝えることはなかった[注釈 4][9]。一方で日本軍を裏切ることもなく、娘のティンサによれば、「たとえ日本がどのような惨めな国になろうとも、一度命を預けて『ビルマ独立』を達成させてもらったのだから、いかなる事態に遭遇しても、われわれは日本を裏切ることだけはすまい」と語っていたのだという。しかし、4月23日にヤンゴンを撤退の際、日本軍はバーモウを見捨て、バー・モウは自ら中古バスをチャーターして、モーラミャインの南のムドン村まで逃げのびざるをえなかった。バーモウはしばらくそこで身を隠していたが、8月14日夜、日本のポツダム宣言受諾を知ると、最後の閣議を開いてビルマ国としても宣言を受諾する旨を決定した[6]。
日本亡命
その後、バー・モウは駐緬日本大使石射猪太郎から日本への亡命を勧められ、1945年8月18日、ムドン村を出て泰緬鉄道に乗ってバンコクへ向かい、バンコクから飛行機でサイゴン、台湾を経由して、8月22日深夜に立川飛行場に到着し、帝国ホテルに投宿した[10]。その後、外務大臣の重光葵に挨拶した後、外務省職員の保護の下、満員電車で新潟へ向かい、陸軍中野学校出身の将校たちの協力の下、「戦争のために言語障害に陥った満州の大学教授」と身分を偽って、新潟県南魚沼郡石打村(現南魚沼市)の薬照寺に身を潜めた。当地では英語を教授する一方、日本語を学習したが、豪雪地帯の気候が合わず、1946年1月17日、自ら東京のGHQに出頭した[11]。バー・モウは国家反逆罪で起訴されることになり、巣鴨拘置所に収監されたが、その後、イギリス政府が対日協力者に対して寛容政策を取ることに決めたため、同年7月31日に釈放rされ、8月1日にミャンマーに帰国した[6]。
不遇の晩年
しかし、帰国したミャンマーでは、既にアウンサンが国家指導者として台頭しており、バー・モウの出番はなかった。1947年同年4月に実施された制憲議会選挙にはマハー・バマー党を率いて立候補を表明したが、他の反AFPFL政党と歩調を合わせて選挙をボイコット。しかし、バー・モウの反アウンサン・反AFPFLの態度は、政府高官・国軍高官の不興を買い、1947年7月19日にアウンサンが暗殺された際には、容疑者の1人として逮捕された(その後、嫌疑不十分で釈放)。また、バー・モウはアウンサンの後釜として、イギリスが自分を首相に任命してくれるものと期待したが、それも叶わなかった[6]。
その後、バー・モウは1951年と1956年の総選挙にも出馬したが、いずれも落選。1962年にネ・ウィンの軍事独裁政権下では、息子のザリモーと娘婿のボー・ヤンナインがウー・ヌの議会制民主主義党に参加していたこともあって、バー・モウの立場はますます悪化し、1960年代後半から1970年代前半まで、政治犯として自宅軟禁下に置かれた。1968年、密かにアメリカへ送った、書き溜めていた英文の自伝が『ビルマの夜明け』として出版されたが、ミャンマー国内での反響はほとんどなかった[6]。
1977年5月29日、84歳で死去。しかし、ネ・ウィンは追悼式の開催を禁止し、彼の訃報が国営新聞に小さく掲載されただけだった[6]。
肖像画
1943年(昭和18年)、日本の洋画家の伊原宇三郎の手で肖像画『バーモウ・ビルマ国家代表像』が製作され、第6回新文展に出品された。戦後、この絵画はGHQにより軍事主義的であると判断され、他の作家の戦争画とともに没収。1970年(昭和45年)、アメリカ合衆国から無期限貸与の形で返還され、以後、東京国立近代美術館に収蔵されている[12][13]。
脚注
注釈
- ^ タンミンウーはアルメニア系と述べ、根本敬は母親がポルトガル人の血を引いていると述べている。
- ^ ビルマ暦の元年は西暦638年。
- ^ 実際にミャンマーの統治に当たったのは、南方軍総司令部とその傘下の第15軍。第15軍は1943年3月に緬甸方面軍に再編された。
- ^ ゆえに、蜂起の際、アウンサンはバー・モウにお詫びの手紙を書いたが、バー・モウの元に届いたのは、戦後かなり経ってのことだった。
出典
- ^ A History of Modern Burma (1958), pg 317
- ^ Thant Myint-U 2008, 9.“THE IRISH OF THE EAST”.
- ^ a b 根本 2010, pp. 55–56.
- ^ “Dr. Ba Maw's Biographic Timeline”. Dr. Ba Maw Foundation (2013年). 2013年11月11日閲覧。
- ^ a b c 根本 2010, pp. 57–62.
- ^ a b c d e f g h 根本 2010, pp. 62–88.
- ^ 『ビルマの夜明け - バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』373頁。
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、487頁。ISBN 978-4-487-74409-1。
- ^ 根本 2010, pp. 107–108.
- ^ 日置英剛『年表 太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年10月31日、740頁。 ISBN 978-4-336-04719-9。
- ^ He was captured on 18 january 1946
- ^ “伊原宇三郎 1894 - 1976 IHARA, Usaburo 作品詳細”. 独立行政法人国立美術館. 2022年9月2日閲覧。
- ^ 25年ぶり戦争絵画 報道関係者に公開『朝日新聞』昭和45年(1970年)6月16日夕刊、3版、9面
参考文献
- バー・モウ『ビルマの夜明け: バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』太陽出版、1973年。
- 根本, 敬『抵抗と協力のはざま――近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』岩波書店、2010年。 ISBN 978-4000283762。
- A History of Modern Burma, by John Frank Cady, Cornell University Press, 1958
- The Burma we love, by Kyaw Min, India Book House, 1945
- Allen, Louis (1986). Burma: the Longest War 1941-45. J.M. Dent and Sons. ISBN 0-460-02474-4
- Thant Myint-U (2008). The River of Lost Footsteps. Faber & Faber. ISBN 978-0571217595
関連項目
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 建国 |
1943年 - 1945年 |
次代 消滅 |
| 先代 建国 |
1943年 - 1945年 |
次代 消滅 |
| 先代 創設 |
1937年 - 1939年 |
次代 ウー・プ |
固有名詞の分類
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