イランの強国化とは? わかりやすく解説

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イランの強国化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 10:03 UTC 版)

ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)」の記事における「イランの強国化」の解説

18世紀初頭ムガル帝国衰退入ったとき、イラン支配していたサファヴィー朝は、それより前の17世紀アッバース1世死後から衰退入っていた。 アッバース1世死後サファヴィー朝では無能な王が続き宮廷内部争いなどで王国乱れアゼルバイジャンバグダードタブリーズを含む南イラクオスマン帝国奪い返された。さらに、17世紀末、サファヴィー朝支配下アフガニスタンではアフガン系民族反乱起こりアフガン系ギルザイ族反乱は深刻で、1722年には王朝首都イスファハーン占領された。 そのころ、1720年代からトルコ系アフシャール族のナーディル・ハーンナーディル・クリー・ベグ)という人物頭角あらわしたこの人物は盗賊首領であったが、サファヴィー朝混乱乗じ各地制圧して力をつけ、カズヴィーン亡命していたサファヴィー朝の王タフマースプ2世組み1729年イスファハーン奪還したその後1730年までにナーディル・ハーンイランからギルザイ族駆逐しアフガニスタン方面へと追いやった。ムガル帝国ムハンマド・シャーに対しては、ギルザイ族イラン侵入せぬようにアフガニスタン統治することを要請しているが、衰退している帝国そのような力はなかった。 1732年サファヴィー朝オスマン帝国敗北してタフマースプ2世屈辱的な条件講和を結ぶと、ナーディル・ハーンタフマースプ2世を捕えて廃位した。彼はその息子アッバース3世新たな王に即位させ、その摂政となりサファヴィー朝支配したその後ナーディル・ハーントルコロシア戦い軍事的天才である彼は周辺諸国より優位に立ち、サファヴィー朝末期イラン国力急速に上がった。そして、1736年ナーディル・ハーンアッバース3世から王位簒奪してサファヴィー朝廃し、「シャー」を名乗りナーディル・シャーとなり、新たにアフシャール朝創始した18世紀インドムガル帝国衰退していたのに対しイランのほうでは勢力回復しているのを見ると、両国は実に対照的であるといえる

※この「イランの強国化」の解説は、「ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)」の解説の一部です。
「イランの強国化」を含む「ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)」の記事については、「ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)」の概要を参照ください。

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