イラク派バアス党での活動1968-1989
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アフラクは第9回党大会後、バグダードに移った。1970年まで滞在したが、ヨルダン内戦でヨルダン政府とパレスチナ解放機構(PLO)の戦闘が勃発した後、イラク政府によるPLO支援が不十分であると非難した。アフラクはイラク政府に内戦への介入を望んだが、バクルは介入を拒否した。その結果、アフラクは抗議のためにレバノンに戻った。 また、1971年にはシリア政府がアフラクに欠席裁判で死刑判決を出した。4年後の1974年にイラクに帰還したが、イラク政治への介入は控えるようになった。イラクに移住後、幾つかの書籍を出版した。最も有名な著作は1975年に出された「アラブ革命運動の歪曲に対する闘争」である。また、1979年に就任したフセイン大統領を助けることもあった。イラン・イラク戦争時、イラン政府は、アフラクを”キリスト教徒の異端者”とし、フセインがキリスト教徒の影響下にあると非難した。実際のところ、イラクでのアフラクはバアス運動創始者としてのあらゆる名誉を与えられていたが、政策決定においてはほとんど無視されていた。
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