イベリア半島の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 07:48 UTC 版)
「ムハンマド1世 (ナスル朝)」の記事における「イベリア半島の情勢」の解説
13世紀初頭は、イベリア半島においてムスリムの勢力が大きく後退する時代となった。アンダルス、すなわち半島南部のムスリム勢力圏は全域が北アフリカのムワッヒド朝に支配されていたが、1224年にカリフのユースフ2世が後継者を残さず死去したことで内乱が起き、分裂を起こした。この結果、アンダルスはターイファと呼ばれる小君主あるいは小王国が割拠する状況に陥った。代表的なターイファの一人ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・フード (1238年没)はムワッヒド朝に反乱を起こし、名目上アッバース朝を宗主と宣言しつつムルシアに独立勢力を築いた(ムルシア王国)。勢力を拡大したイブン・フードは事実上アンダルスの指導者となり、ムハンマド(1世)も一時は彼の傘下に入った。アンダルスでの地位を確立し人気もあったイブン・フードだったが、1230年のアランヘの戦い、1231年のヘレスの戦いと立て続けにキリスト教徒に敗れ、バダホスとエストレマドゥーラを失った。 イベリア半島北部には、いくつかのキリスト教王国が割拠していた。すなわちカスティーリャ、レオン (1231年以降はカスティーリャと連合)、ポルトガル、ナバラ、そしてアラゴン連合王国である。これらキリスト教諸国は、それまでムスリムが支配していた南方へと領土を拡大していった。レコンキスタという通称で知られるこの領土拡張により、キリスト教諸国は領内にかなりの数のムスリムを抱え込むことになった。13世紀半ばまでに、カスティーリャ王国はイベリア半島最大の国家へと成長していた。カスティーリャ王フェルナンド3世 (r. 1217年–1252年) はレオン王国を手に入れ、またムスリムの不統一につけこんで南方遠征をおこない、1236年にコルドバ、1248年にセビリアを征服した。
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