イタリア人少年殺人事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 10:16 UTC 版)
「ロンドン・バーカーズ」の記事における「イタリア人少年殺人事件」の解説
1830年7月、ジョン・ビショップとトーマス・ウイリアムスはセイラ・トルウビからノバスコシアガーデン3号を借りた。 1831年11月5日、ビショップとメイはやけに新しい14歳の少年の死体をストランドにあるキングス大学の解剖学校に届けた。彼らは、それをガイズ病院に売ろうとしたが断られた。 彼らは死体の対価として12ギニーを要求したが、9ギニーしかもらえなかった。解剖学者リチャード・パートリッジが精査したところ死体には埋葬された形跡がないようだった。解剖学教授のメイヨーはコベントガーデンの警察に通報した。死体盗掘人は逮捕され、治安判事により拘留された。11月8日検死官の陪審がおこなわれ、「氏名不詳の一人もしくは複数の被害者を故意に殺した事件」の答申が為されたが、その中で囚人のビショップ、ウイリアムス、メイらがこれに深く関与していることを確信する旨が述べられていた。 11月9日、ロンドン警視庁のF分署(コベントガーデン)の警視ジョセフ・サドラー・トーマスが、ノバスコシアガーデンの小屋を捜索し、井戸の中と戸外で衣服を発見したが、これは複数の殺人をうかがわせた。囚人は、オールドベイレイ(訳注: 刑事裁判所)でティンダル裁判長、ジャスティス・リトルデール、バロン・ヴァウガンと12月2日・3日に裁判を受けた。ビショップ33歳、ウイリアムス26歳とメイ30歳は有罪となった。その後群衆に聞こえるように窓が開けられ死刑の判決がされた。 警察の特別の計らいによりノバスコシアガーデンが5シリングで公開され、野次馬が土産に壊した破片を持ち去った。警察は被害者の少年をピードモントのイタリア人カルロ・フェラーリとしたが、ビショップとウイリアムスの公判の中でスミスフィールド(訳注: 家畜市場がある)へ向かうリンカーンシャーの牛飼いだったとした。
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