イギリス領ノバスコシアへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 14:18 UTC 版)
「ポートロワイヤルの戦い (1710年)」の記事における「イギリス領ノバスコシアへ」の解説
イギリス軍は、10月16日の式典の後、正式にポートロワイヤルを自国領とした。アン女王に敬意を表してアナポリス・ロイヤルと改名され、サムエル・ベッチはノバスコシアの新総督となった。翌年、アナポリス・ロイヤルを取り戻そうという動きが起きた。イギリス兵が待ち伏せで襲撃されたブラッディクリークの戦いの後、ベルナール・アンセルム・ダバディ・ド・サンキャスタンが200人のアカディア人と先住民兵を率いて要塞包囲に出たが、失敗した。 ポートロワイヤルの占領は、アカディア半島でのフランス支配の終焉を意味した。そして、この地域の支配をめぐっての争いは、イギリスが七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)を制覇するまで続くことになる。アカディアの地位は、交渉の中でもより議論を呼び、ユトレヒト条約にまでもつれ込み、もう少しで、別の新たな戦争が起こるところだった。フランスはアカディアを取り戻せなかったものの、サンジャン島(現プリンスエドワード島)とケープ・ブルトン島は維持できた。この2つは、大西洋の漁場を確保する意味で重要な存在だった。 イギリスの征服により、アカディアの人々は今までとは異なる立場に置かれた。イギリスは、何度もイギリス国王への忠誠を要求したが、アカディア人は、フランスに対して武器を取ることを意味する、イギリスへの忠誠を拒否し、中立を宣言した。その次の10年間で、このことで、または他の理由で何百人ものアカディア人がノバスコシアの半島を去って行った。彼らの多くは、大規模なフランスの入植地を避けて、サンジャン島に向かった。 ユトレヒト条約では、アカディアの境界線は正式には固定されておらず、これがなおも進行しつつあった英仏間の摩擦の原因となった。特にイスマス・オブ・チグネクトには、結局両国が要塞を築いた。この地域的紛争は、1760年にイギリスがヌーベルフランスを支配下においてはじめて解決するが、この紛争における英仏間の非正式な国境(ミサガス川)は、今はカナダのノバスコシアとニューブランズウィックの州境を形成している。
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