イエスの死とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 00:45 UTC 版)
「ナザレのイエス」の記事における「イエスの死とその後」の解説
イエスは、伝統的なユダヤ教の一派であるファリサイ派のあり方、形ばかりで内容のともなわない見せかけの善行を痛烈に批判し、「神殿から商人を追い出す」(売買人を追い出し、両替商の台を倒した)など様々な批判を行った。このことは神殿貴族であるサドカイ派に対する大きな脅威であったため、イエスは政治犯としておもにサドカイ派の人間によってローマ帝国に訴えられ、エルサレムのそばのゴルゴタの丘で、ローマ帝国の法に従って十字架刑に処された。 『マルコによる福音書』は十字架上で刑死したイエスの遺骸を、岩窟式の墓に葬ったと伝え、3日目に訪ねると、イエスの遺骸が消えていたと記している。川島貞雄と佐藤研は、文献学的な研究では、『マルコによる福音書』はこの記述で終わっており、後に記された復活の記述は後世の加筆である、と主張している(しかし、「イエスが死後、復活した」ということを明確に主張しているのは、他の福音書と変わらない)。 福音書によれば、イエスは磔の刑により死亡したが、3日目によみがえり、多くの弟子たちの前に姿を現したあと40日間ともに生活し、天に向かって昇って行ったとされる。 加藤隆は、イエスの死後、弟子たちは「ユダヤ教のナザレ派」として活動した、と主張している。新井智、田川建三、真山光彌によると、ほどなくして、エルサレムに本拠を置くヘブライスト(ヘブライ派)と、異邦人伝道のヘレニスト(ヘレニスム派)の間で、イエスの教えに関して論争が起こった 、とする。田川によると、その後、ユダヤ戦争の結果として紀元70年にエルサレム神殿が破壊されると共に、エルサレムのヘブライ派はほぼ姿を消し、イエスの教えが地中海世界全域にキリスト教として広がり、ナザレのイエスは救世主イエス・キリストとして知られるようになる。
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