アルタイ方面での駐屯とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > アルタイ方面での駐屯の意味・解説 

アルタイ方面での駐屯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 14:16 UTC 版)

コルギス (オングト部)」の記事における「アルタイ方面での駐屯」の解説

1294年(至元31年)にクビライ死去してテムル(成宗オルジェイトゥ・カーン)が即位すると、コルギス改め高唐王に封ぜられた。この頃大元ウルス敵対するカイドゥ・ウルスではクビライ死去という大きな契機経て情勢変わり大元ウルスとカイドゥ・ウルスの間での軍事的緊張高まってきていた。そこでコルギスは対カイドゥ軍との戦い最前線赴くことをオルジェイトゥ・カーンに請い再三にわたる要請の末前線に出ることを許された。この時、コルギスは「西北(カイドゥ・ウルス)が平定されなければ我が馬を南に向ける(=帰還する)ことはないだろう」と周囲語ったという。 コルギスカイドゥ軍との国境最前線駐屯したことは西方でも知られており、フレグ・ウルス編纂されたペルシア語史料集史』には以下のような記述がある。 東北[の方面]は、カイドゥドゥアの側に接している。……東から順に諸王アミールたちが軍を率いて駐屯している。最も東にはカアン(ここはクビライ継いだ成宗テムル・カアン)の父母[を同じくする]兄弟である皇子カマラが軍を率いて駐屯する彼の次にカアン娘婿コルギス・キュレゲン、彼の次にはクビライ・カアンの大アミール1人であったトトガクの子チョンウル彼の次に同じく大アミールであったバヤン・クブクチの子ナンギャダイ彼の次にはテムル・カアンの叔父ココチュ。そして、その次にマンガラの子である皇子アーナンダ治めタングート地方到達する……。 — ラシードゥッディーン、『集史』クビライ・カアン紀 近年モンゴル国ホブド県ムンフハイルハン郡のウラーン・トルゴイという地にて「高唐王」や「大徳2年」と記され木簡発見されており、コルギス駐屯地は現ムンフハイルハン郡一帯であった考えられている。

※この「アルタイ方面での駐屯」の解説は、「コルギス (オングト部)」の解説の一部です。
「アルタイ方面での駐屯」を含む「コルギス (オングト部)」の記事については、「コルギス (オングト部)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アルタイ方面での駐屯」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アルタイ方面での駐屯」の関連用語

1
6% |||||

アルタイ方面での駐屯のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アルタイ方面での駐屯のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのコルギス (オングト部) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS