アルカセル・キビールの敗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:37 UTC 版)
「アヴィス王朝」の記事における「アルカセル・キビールの敗戦」の解説
マヌエル1世の後継者であるジョアン3世はヨーロッパ方面への関心は薄く、海外進出に熱意を傾けていた。しかし、ポルトガルが占領するモロッコの都市は常にイスラーム勢力の攻撃に晒され、北アフリカでの勢力の拡大は困難な状況となっていた。ジョアン3世はモロッコ征服の計画を断念して沿岸部の都市からの撤退を決定し、セウタ、タンジェ、マザガン(エルジャディダ)だけがポルトガルの下に留まる。 ジョアン3世が没した時、9人の嫡子と2人の庶子は全員死没していたため、孫のセバスティアン1世が王位に就けられる。1568年まではセバスティアン1世の祖母カタリナ・デ・アウストリア、大叔父の枢機卿ドン・エンリケらが摂政を務めていたが、セバスティアン1世は親政を開始して間もなく祖母の助言を聞き入れなくなり、側近の助言を受けて征服事業に乗り出すようになる。1578年にセバスティアン1世はモロッコに親征を行うが、アルカセル・キビールの戦いでサアド朝の君主アブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世に大敗し、およそ8,000人の貴族と兵士だけでなくセバスティアン1世自身も戦死する。大敗に終わったセバスティアン1世の遠征には年間の国家収入の半分に達する100万クルザード以上の軍費が投じられたと言われている。
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