アメリカ合衆国でのプレー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/12 02:20 UTC 版)
「ドルフ・ルケ」の記事における「アメリカ合衆国でのプレー」の解説
キューバのハバナに生まれた。アメリカ合衆国では当初、ニグロリーグのキューバ人選抜チームであるキューバン・スターズ (ウェスト)で投手としてプレーをしていたが、青い眼をしていて肌の色が白かったことで、有色人種の出場が許されていなかった当時のMLBに出場することが出来た。 1914年に23歳でMLBのボストン・ブレーブスに入団したが、ブレーブスでは出場機会に恵まれなかった。 1918年にはシンシナティ・レッズへトレードされる。主にカーブを主体とした頭脳的なピッチングスタイルで、この年に83.0回を投げて頭角を現し、その後12年にわたってレッズの先発投手を務めた。 1919年には、ブラックソックス事件の舞台となったシカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズに出場。リリーフとして2試合に登板し、レッズのワールドシリーズ制覇に貢献している。 その後1923年に27勝8敗・防御率1.93の成績で最優秀防御率と最多勝の二冠を獲得し、キューバ出身者として初めてMLBの投手部門のタイトルを獲得した人物となった。 1925年にも16勝・防御率2.63の成績で2度目の最優秀防御率のタイトルを獲得し、この時はシーズンのMVP候補にも挙げられている。 レッズに12年在籍した後、40歳に近くなった1930年にブルックリン・ロビンズへ移籍。 1932年には41歳でニューヨーク・ジャイアンツのリリーフを務めた。 1935年に44歳で現役を引退した。
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