アメリカ―ウクライナ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 15:52 UTC 版)
「ミハイル・ミンスキー」の記事における「アメリカ―ウクライナ時代」の解説
1949年5月5日、ミンスキーはニューヨークへ発つ。同年に彼とバンデューリスト合唱団はホワイトハウスに迎えられ、1949年10月2日のマソニック・オーディトリアムを含む様々な会場でコンサートを行った。彼は1950年に最初のレコーディングを行い、1962年前後までに著名なウクライナのアーティストたちと20ものレコードを制作した。彼はその生涯でアメリカのほとんどすべての主要コンサート・ホールで歌っており、1953年にはじめてカーネギーホールでパフォーマンスをしている。 1953年2月21日に彼はアメリカの市民権を与えられ、名前を名前をスピーリンからミンスキーに変えている。1954年に彼は「アイーダ」でフィラデルフィアでのデビューを果たす。 この頃ミンスキーはウクライナ人コミュニティの間で活発な活動を行っており、アメリカとカナダのウクライナ人が多く住む都市のすべてで多くのパフォーマンスを行った。彼はミコラ・フォメンコやアンドリー・ナティシャン、W. グルディン、J. B. ルドニツキ教授、イゴール・ソネヴィトスキーといった離散したウクライナ人作曲家たちとの共演やコラボレーションを行っている。彼はウクライナ地域の歌や民謡、第一次大戦時のウクライナ軍やウクライナ地下軍の軍歌を収めたLPレコードを発表している。1971年にはミネアポリスのウクライナ人コミュニティがミンスキーの50歳を記念コンサートで祝った。同年にミンスキーはイギリスのウクライナ人コミュニティをまわるツアーを行っている。そして1972年にはオーストラリアウクライナ連合機構が喝采を受けた同大陸でのツアーのスポンサーとなった。1949年からアメリカ在住の終わりまで、彼はすべてのコンサート及びウクライナ・バンデューリスト合唱団(ウクライナの伝統楽器バンデューラが用いられる)のツアーにソリストとして参加している。
※この「アメリカ―ウクライナ時代」の解説は、「ミハイル・ミンスキー」の解説の一部です。
「アメリカ―ウクライナ時代」を含む「ミハイル・ミンスキー」の記事については、「ミハイル・ミンスキー」の概要を参照ください。
- アメリカ―ウクライナ時代のページへのリンク