アクエンアテンの改革と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:54 UTC 版)
「ネフェルティティ」の記事における「アクエンアテンの改革と敗北」の解説
紀元前1346年(頃)、エジプト第18王朝の若きファラオ、アクエンアテン(旧名アメンホテプ4世)は、父王アメンホテプ3世の逝去で、全権を掌握すると、かねてからの理想を実行に移し始めた。 伝統的なアメン神を中心にした神殿権力による多神崇拝を否定し、太陽神アテンの一神崇拝を理念に掲げた(世界最初の一神教といわれる)。神殿勢力の本拠であるテーベと古都メンフィスを棄て、新たな地に新都アケトアテンを築き、遷都した。アクエンアテンは、アテンを讃美する平和と恵みの歌をみずから記し、エジプトの主要な土地で、「アテン讃歌」と呼ばれる讃美の詩を岩に刻ませた。これをアマルナ革命と言う。 アテンは平和と恵みの神であり、アクエンアテンは戦争を否定し、ためにヒッタイトの侵出を許した。また多神教を理念的に否定したのであって、アメンの神官等を鏖殺することをせず、神殿勢力を存続させたため、アクエンアテンの死後、すみやかに神殿勢力は勢いを復活させ、アテン信仰は崩壊へと進んだ。 紀元前1334年(頃)、アクエンアテンを継承したファラオ・トゥト・アンク・アテン(Tut-aNKH-aToN)は、名をトゥト・アンク・アメン(TuT-aNKH-aMeN)に変え、アメン信仰に復帰する。 トゥト・アンク・アメンの早急な死後、大神官アイはファラオの位に登り、アメン神殿と宥和して、将軍ホルエムヘブを派遣してヒッタイトをパレスティナより撃退する。ホルエムヘブがやがて、アイの後を襲ってファラオとなり、アクエンアテンの名と存在、その事績をすべて抹消する。こうして、アマルナ革命はアクエンアテンやその家族、宮廷の記録と共に、エジプトの砂の彼方に埋もれた。
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