はげ山と治山事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 03:45 UTC 版)
太古の昔はヒノキの枯木が鬱蒼と生い茂っていたが、藤原京造営やその後の平城京遷都、寺院造営などに際して、瀬田川、木津川を利用した水運による利便性と山中の木々の良質さから、田上山のヒノキを数万本伐採して用いたとされている。 このため田上山ははげ山となり、江戸時代には「田上の禿」という言葉もあったという。雨が降るたびに大量の土砂が瀬田川に流れ込み、大規模な氾濫を繰り返してきた。そのため明治期以降は、田上山の関津狐ヶ谷に谷止工(治山ダム)を計画し設計したオランダの技術者デ・レーケ、防砂技術の集大成『水理真宝』を著した市川義方、ヒメヤシャブシ やアカマツなどを植林し「緑山郡長」と慕われた松田宗寿など、様々な人が田上山の砂防に取り組んできた。 この一連の土木事業には地元の人々も参加したが、大正期の地元民の手記には「砂防工事へとワラジをはいて肩の痛い芝運搬にと、天びん棒の下で目をむいて数年間」という言葉が残されており、当時の作業の過酷さが伝わってくる。 江戸時代から現在に至るまで緑化が続けられているが、1992年時点での被植率は61.8%である。
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