その他の「代官町」地名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/13 06:44 UTC 版)
『角川日本地名大辞典』・『日本歴史地名大系』のいずれにも収録されない「代官町」地名もある。例えば筑前国福岡の代官町は、初期の段階で消滅したが、多くの史料からその存在が明らかであるし、規模や居住者もある程度明らかとなっている。要約すると、次のようになる。 13haにおよぶ福岡城三ノ丸西部の大半を占めていた 寛永4年(1627年)頃の絵図を見ると、三ノ丸西部に17区画の屋敷が図示されており、一区画あたりの屋敷面積は三ノ丸東部の屋敷に比べてかなり狭い。この事実は、各々の屋敷が重臣の屋敷でなく官吏の役屋敷であることを示唆する。 代官町に屋敷を与えられた人物を追うと、代官のほか、組外(くみはずれ)とされる家臣の名も見える。組外とは「いずれの侍組にも属さない者」の意で、役方もしくは特殊技能を持った家臣である。 代官は藩政のごく初期において検地を行い、結果を集約して石高を確定、その後は郡奉行とともに直轄地の農政を担当した官吏である。これら代官が、検地に関連した諸業務を滞りなく行えるよう、初期の段階で城内に屋敷を与えられたことは十分に考えられる。 寛永10年(1633年)頃、2代藩主黒田忠之はこの屋敷町のうち六区画を収公、新たに藩主の御殿を造営、その後しばらくして大規模な区画整理が行われ、正保3年(1646年)までに、敷地面積の狭い屋敷は消滅、藩主の御殿・重臣屋敷五区画・勘定所からなる屋敷町が形成された。 その後、「斎藤甚右衛門定時(性安)が明暦3年(1657年)に代官町の屋敷で死去した」という記述や、「寛文7年(1667年)、黒田一春が大(ママ)官町で出生した」という記述が家伝類にみられるものの、それ以降の史料での用例は確認されていない。
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