その他の「ライバル」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 01:32 UTC 版)
中野が世界選手権で初優勝した同日に、王貞治がホームラン世界記録に並ぶ755本目を打ち、翌日のスポーツ紙の一面は王の記事ばかりで、中野の快挙はほんの小さな扱いだった。翌年の世界選手権で中野は連覇を達成したが、帰国した日の一面は、またしても王の800号が扱われ、世間の注目を集められなかった。したがって当時、王に対するライバル心はあったようだ。その時、中野は「世界選手権で連覇し続けようになった」という。 また獲得賞金面においても王にライバル心を抱いていた。当時日本プロスポーツ界で最も稼いでいたとされる(CM出演料等を除く正味の稼ぎ)、王の年俸が最高でも8000万円ほど(但し『推定』年俸のため、実際の額は不明)だったが、「王さんより先に自分が日本で初めて1億円の賞金を稼ぐ選手となる。」と明言し、日本におけるプロスポーツ選手として初めて1980年に年間獲得額1億円を達成した(当該項目も参照)。
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