しづけさに山蟻われを噛みにけり
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季 節 | 夏 |
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評 言 | 昭和二十九年作。句集『山國』(昭和三十一年 近藤書店)所収。「入笠山行 十三句」と前書きのある内の一句。 昭和二十四年晩夏、「馬酔木」の若き俳人市川青穂と堀口星眠が、佐久野沢の遷子を訪ねた。遷子四十一歳の時であった。この時から大島民郎・岡谷公二等と軽井沢や野辺山などいわゆる高原に何度も吟行に出かけた。星眠は「(遷子は)高原派の隊長として、私たちを指導してくれて、自分でも境涯を投影した高原の名句を数々ものした」(信濃毎日新聞 昭和五十五年十月二十九日)と書いている。 掲句、閑かな高原、蟻はそのあまりにも閑かな淋しさに堪えられず、思わず遷子を噛んだ。遷子はこの時、蟻と自分の思いが同じだったことに気付いたのではあるまいか。遷子は自然と自分が一体だと感じていた。それは、後年の絶唱「冬麗の微塵となりて去らんとす」(句集『山河』)という句からも伺える。遷子は人間も自然即ち宇宙そのものと一体であると考えていたのだった。山の蟻の淋しさは遷子同様、生きるもののさびしさでもあった。 尚、『山國』の跋に石田波郷が次のように書いている。 「高原派の本質は堀口星眠君によって代表されるべきである。都會で、あるひは亞都會で近代文明下の生活を送つてゐる者が、自然の呼聲にひかれて、近代文明の桎梏から精神を解放して自然の中に沒入し、高らかに自然讃歌をうたふ。これが高原派の本質である。このやうに見るとき相馬遷子氏の俳句は、高原派とは異質のものであるといはざるを得ない。」 また、遷子自身も「佐久そのものが高原であり又峡谷であるとも言えましょう」(「佐久雑記」)と述べていて、遷子をいわゆる高原派と一括りすることには問題があろう。 Photo by (c)Tomo.Yun |
評 者 | |
備 考 |
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