加覧五郎(がらんごろう 1848-1929)
陸地測量部、測夫(測量助手)の鏡。
加覧五郎は、鹿児島県川辺郡川辺町出身の測夫。
陸地測量部の部内誌「三交会誌」に、「測夫加覧五郎氏は、先頃老齢の故をもってその職を退けり。時あたかも今次のご大礼に察しければ、三角科員たりし有志者豫して氏に記念金40円を贈りその忠勤を表彰せり。測夫にして此の如き厚遇を受くるは氏をもって嚆矢なり 云々」(大正4年)とあり、老練なる技術はもちろんのこと、頑健な体躯、純朴な心情、忠実な勤務など測夫の鏡ともいえる者であったらしい。
観測者に向かい合う山々から送られてくる回照光は、角観測を行うための目標とするほか、観測点と観測の目標とする視準点の間での通信にも使われた。それは、回照する光の強弱についての注意信号、そして「観測開始」「観測終了」などであった。これを担当したのが測夫である。加覧五郎は、一たび出張の命令が下ると精気をみなぎらせて業務に赴き、回照の技には目を見張るものがあったといい、在職中にその技術のことで測量師から指摘されたことは一度たりとなかったという。
また、次のような話も残る強者である。
あるとき、常人なら五、六日もかかる山頂までの道のりなのに、加覧は二日目には(到着し)森の向こうから光を送ってくる。他の測夫が、「どうしてそのような俊敏な行動がとれるのか」と聞くと、加覧曰く「目的とする山頂をよく定めておき、その後は山でも、峠でも、谷や川でも、一直線に這い下がり、這い上がるばかりだ」と言って平然としていたという。
回照観測
加覧五郎は、鹿児島県川辺郡川辺町出身の測夫。
陸地測量部の部内誌「三交会誌」に、「測夫加覧五郎氏は、先頃老齢の故をもってその職を退けり。時あたかも今次のご大礼に察しければ、三角科員たりし有志者豫して氏に記念金40円を贈りその忠勤を表彰せり。測夫にして此の如き厚遇を受くるは氏をもって嚆矢なり 云々」(大正4年)とあり、老練なる技術はもちろんのこと、頑健な体躯、純朴な心情、忠実な勤務など測夫の鏡ともいえる者であったらしい。
観測者に向かい合う山々から送られてくる回照光は、角観測を行うための目標とするほか、観測点と観測の目標とする視準点の間での通信にも使われた。それは、回照する光の強弱についての注意信号、そして「観測開始」「観測終了」などであった。これを担当したのが測夫である。加覧五郎は、一たび出張の命令が下ると精気をみなぎらせて業務に赴き、回照の技には目を見張るものがあったといい、在職中にその技術のことで測量師から指摘されたことは一度たりとなかったという。
また、次のような話も残る強者である。
あるとき、常人なら五、六日もかかる山頂までの道のりなのに、加覧は二日目には(到着し)森の向こうから光を送ってくる。他の測夫が、「どうしてそのような俊敏な行動がとれるのか」と聞くと、加覧曰く「目的とする山頂をよく定めておき、その後は山でも、峠でも、谷や川でも、一直線に這い下がり、這い上がるばかりだ」と言って平然としていたという。
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