かわたとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/14 02:43 UTC 版)
近世に入ると夙とかわたの間で特権などを巡って争いが生じてきた。それらの争いは近世封建制の成立してくる揺籃期に限られており、江戸時代中後期にはみられない。夙者とかわたの対立は近世賎民制の成立過程そのものと深いつながりがあると考えられるが、いま一つ明らかではない。 播磨では永禄年間の夙の者とかわたとが神社祭礼を巡って争いを起こし、奉公所は夙はかわたに従うものとの判断を下して、後代の為に証文をしたためたという。 また、兵庫津でも片桐市正が摂津奉行だった時代と寛永16年(1639年)の2回に渡って宿と皮田中(かわたちゅう)との争いがあり、共に夙が敗訴している。 また、奈良興福寺の隷属関係にあった東之坂皮田村と同じく興福寺支配下の坂下非人=北山夙との間に史料に現れただけでも慶長15年(1610年)、元和9年(1623年)、万治元年(1658年)、寛文4年(1663年)の4回に亙って争論を引き起こしている。 いずれも夙がかわたの身分的下位にあって、かわたとの間に直接的支配・隷属関係が構成されていた。争論の原因はかわた支配下の夙が身分的隷属を脱しようとして起こった。
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