あゆみの箱チャリティショウ
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「サンパウロ日伯援護協会」の記事における「あゆみの箱チャリティショウ」の解説
1971年と1973年の二度にわたって行われたあゆみの箱チャリティショーは援協の基金作りに大きく貢献し、また当時のブラジル日系社会で行われた最大規模の娯楽イベントである。このイベントのきっかけは1971年1月に日本あゆみの箱代表理事の伴淳三郎がブラジルを訪問し、中沢援協会長と会談したことに始まる。当時、援協基金作りの最中にあった中沢は周囲の勧められてショー開催を決意した。このイベントでは援協が主催団体となり、協力団体として他の日系福祉団体として参加し、サンパウロ州スポーツ観光局とサンパウロ市観光局が後援して強力な実行組織を結成した。 第1回あゆみの箱チャリティショウサンパウロ市のイブラプエラ体育館で1971年8月21~22日の2日間にわたって4度の公演が行われた。出演者は伴淳三郎、坂東三津五郎、森繁久弥、勝新太郎、京マチ子、鶴田浩二、春日八郎、渡辺はま子、冠船流川田琉球舞踊団(川田礼子、川田功子、川田公子)、大谷瑠美子、玉川勝太郎、志摩夕起夫であった。このショーの入場者は延べ1万7,000人に達し、粗収入83万3,623クルゼイロ純益34万158クルゼイロ(当時は1ドルが約5クルゼイロであった)と大成功を収めた。援協は主催者団体として15万8,000クルゼイロ受け取り、協力団体として参加した社会福祉法人救済会、パウリスタ児童療護会(現・社会福祉法人こどものその)、希望の家福祉協会の3つの日系福祉団体にも配分された。残った1万5,000クルゼイロは非日系の5つの福祉団体に均等に寄付された。 第2回あゆみの箱チャリティショウ1972年3月、ブラジル日系社会の受けた歓迎に応えて、あゆみの箱は第2回チャリティショウの開催を援協に打診してきた。しかし、有名芸能人のスケジュール調整が難しく、実現は1973年8月17~19日の3日間に公演が決定した。会場は前回と同じイブラプエラ体育館で出演者は伴淳三郎、坂東三津五郎、森繁久弥、長谷川一夫、京マチ子、淡島千景、長谷川稀世、坂東三津十郎、花柳芳次郎、引田天功、冠船流川田琉球舞踊団(川田礼子、川田朝子、川田功子、川田公子)、千昌夫、柳沢真一、松島みどり、榎本美佐江、志摩夕起夫、寺岡慎二であった。二度目の公演では観客数は3万人を越え、総収入146万4,195クルゼイロ、純益41万クルゼイロ(当時は1ドルが約6クルゼイロ)になった。援協は18万クルゼイロを受け、残りは日系の9団体、病院に配られた。
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