『明月記』の記事
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「藤原定家自筆本源氏物語」の記事における「『明月記』の記事」の解説
定家の日記である『明月記』には『源氏物語』の書写に関して何カ所かの記事が存在する。 嘉禄元年2月16日(1225年3月26日)条前年(1224年(元仁元年))11月から家中の小女等に書写させた「源氏物語五十四帖」が出来上がり、昨日表紙付けを終え、今日その外題を書いて完成した。建久の頃に『源氏物語』(家の証本ともいうべき物)を盗まれて以来、長年証本作りを怠けてこの物がなかったが、漸く出来上がった。とはいうものの、なお狼藉不審の箇所は多々あり、必ずしも満足のいく出来でない。 嘉禄2年5月26日(1226年6月22日)条承明門院姫宮から所望されたため「紅葉賀」「未通女」「藤裏葉」三帖を書き進ぜた。 安貞元年10月13日(1227年11月23日)条室町殿から借りていた『源氏物語』二部を「家本」と「見合」せ「用捨其詞」して返上した。 寛喜2年3月27日(1230年5月11日)条「桐壺」(と「紅葉賀」)を分担して書くよう命じられる。 同年3月28日(1230年5月12日)条「桐壺」を書くこと渋る。 同年4月3日(1230年5月16日)条「紅葉賀」を書終られず。 同年4月4日(1230年5月17日)条『源氏物語』を書く間、発熱歯痛する。 同年4月6日(1230年5月19日)条「桐壺」と「紅葉賀」を完成させて進呈した。 同年4月26日(1230年6月8日)条「夕顔」巻は忠明中将が分担書写したことを知る。
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