『レクスプレス』創刊
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「フランソワーズ・ジルー」の記事における「『レクスプレス』創刊」の解説
ところが、1953年、ジルーは辞任を決意し、エレーヌ・ラザレフを驚かせた。『ELLE』を離れて新しい雑誌を創ろうとしていたのだが、これは当時、恋愛関係にあったジャーナリスト・政治家のジャン=ジャック・セルヴァン=シュレベール(フランス語版)と共に、インドシナ戦争の和平解決を説くピエール・マンデス=フランスを支持する活動の一環であった。こうしてジルーとセルヴァン=シュレベールは同年『レクスプレス(フランス語版)』誌を創刊し、翌1954年にはセルヴァン=シュレベールの妹クリスティアーヌ・コランジュ(フランス語版)も参加し、『マダム・エクスプレス』の編集長に就任した。1946年に始まったインドシナ戦争は、1954年5月7日にフランス軍がディエンビエンフーで決定的な敗北を喫し、ベトナムから撤退することになった。同年11月1日にはアルジェリア民族解放戦線が一斉蜂起を開始し(「赤い諸聖人の日」)、『レクスプレス』は植民地主義を厳しく批判。特にフランス軍による拷問について、レオーネ・ムズラというアルジェリアで拷問を受けた女性教師のインタビューを掲載した ―「一部の人間は特定の状況において、拷問を行うことで強烈な満足感を味わう。私たちは数人の男たちが、精神病院に収容されることなく、拷問を思う存分楽しむような状況にいた」。ジルーはフランソワ・モーリアックとアルベール・カミュに寄稿を求めた。1955年から56年にかけてモーリアックは500のコラムを執筆し、カミュは55の記事を掲載した。他にもジャン=ポール・サルトル、『ル・モンド』紙の政治部長ピエール・ヴィアンソン=ポンテ(フランス語版)、『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール(フランス語版)』編集主幹のジャン・ダニエル(フランス語版)、そしてマンデス=フランスと彼の支持者らが寄稿した。『レクスプレス』の発行部数は1970年に50万部に達した。ジルー自身、「女性が女性誌以外の雑誌を経営または共同経営したことはこれまでにないことだった」と自負している。
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