『イエス伝』の執筆
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「エルネスト・ルナン」の記事における「『イエス伝』の執筆」の解説
1860年から翌年にかけて、ルナンは政府の命によってパレスチナの学術調査の指揮を執る。ここでルナンは一帯を旅し『イエス伝』の下敷きとなるパレスチナの風物に親しく交わったが、同伴した姉アンリエットと同時にマラリアにかかり、意識を回復した時にはアンリエットは既に死去していた。このアンリエットの人格的感化力がなければ、ルナンの『イエス伝』はより破壊的な性格のものとなったと言われる。 帰国した1861年にコレージュ・ド・フランスのヘブライ語主任教授に就任したルナンは、翌1862年の開講初日にイエスのことを「比類なき人間」と呼んで即座に大きな物議をかもし、1870年の復職に至るまで講義は中止を余儀なくされてしまう。講義が中止に追い込まれた翌1863年、『イエス伝』は刊行された。イエスの天才的ヒューマニズムを賛辞して止まぬも、「奇跡や超自然」を全て非科学的伝説として排除したルナンの近代合理主義的な世界観による「史的イエス」の書は、すぐさま各言語に翻訳され、ヨーロッパで広く議論の的となった。 ルナンの『イエス伝』は、自然科学によって理論体系化不可能な要素は全てこれを迷信として排除するという聖書研究の世俗的伝統の端緒となった。 1884年、コレージュ・ド・フランスの学長に任命された。
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