「神の人」晩年
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1923年~24年頃、アランを筆頭にラニョーの弟子たちがラニョーの業績を発刊する計画を知ったルテリエは、鞄に一杯書類を詰めてパリに上京するとアランの家に行き、ラニョーの講義をとったノートをポケットからだして見せた。この時のことをアランは「或る記念すべき訪問」と書き、次のように語っている。(*は引用者註) 「頑丈な体格で、馬の如き頭をした(略)朴訥なる御仁が拙宅を尋ねてこられたのである。彼は書類の一杯詰まった鞄を携えて来たが、その中から(略)自分の作成した講義録を取り出したのを見て、私は自分が(*ノートを)作れなかったために大いに恥じた。そして最後に、「神の存在について」と題した貴重なノートがでてきたのである」 — アラン、『ラニョーの思い出』(1980).60頁 アランはその場でルテリエに「神の人」という名を献上したという。ルテリエはラニョーが講義で語る言葉に「世界を股にかけて探しまわっても見つからなかったもの」「自分の運命についての最後の言葉」を見出したのだ、とアランは感受し、その”「崇高なる頁」を読ませて貰った”と書いている。共に共通の師を深く尊敬する二人の間にはすぐに友情が芽生えた。 ノートはそのまま印刷され1925年に出版された。レオン・ルテリエはノートが公刊された次の年の1926年3月、故郷で不帰の人となった。
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