「滝田修」解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:14 UTC 版)
浦和地方裁判所で竹本は無罪を主張したが、1989年3月2日の判決では強盗致死の謀議を否定し幇助で有罪として、懲役5年が確定した(なお、この時の弁護人の一人が安田好弘であった)。浦和拘置所での未決勾留日数6年7ヶ月が量刑を上回っていたため、即日釈放された。1989年12月、竹本信弘として「滝田修解体」を出版し、かつての革命の非を認めた。竹本は、本書の中で「"過激派の教祖・滝田修"──この虚名は、もちろん警察とそれに追随するマスコミが悪意をもってつくり上げたものである」と主張しつつ、「私自身もそのような滝田修像をよしとして受け容れて、虚像づくりに参加していたのである」「時代の気分に『迎合』していた、といわれても抗弁できない自分を感じる」と述べている。一方、裁判では無罪を主張して東京高等裁判所に控訴したが(検察側は控訴せず)、1992年7月21日に控訴を取り下げ、有罪判決が確定した。刑務所へ収監されることはなかった。 1989年に拘置所を出てからはテレビ番組の制作会社などを経て、1996年に映像制作会社の有限会社メディアコムを設立。今日もなお自らの無実を主張し、自分は「反革命集団ないし警察権力の政治意志のもとに仕掛けられた罠」に嵌められたと発言している。
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