「悪行」の背景とその後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/26 06:30 UTC 版)
「北条時国」の記事における「「悪行」の背景とその後の影響」の解説
時国の事件の背景には、この頃の安達泰盛と平頼綱の対立が関係していたとの説がある。すなわち、時国を婚姻関係を通じた安達氏の与党と捉え、時国の流刑は頼綱派による泰盛派への攻撃で、翌弘安8年(1285年)に起こる霜月騒動の前哨戦であったとする。また、時国が捕えられた頃、弘安7年6月25日には有力御家人の足利家時が自殺しているが、これについても家時が佐介流とその姻戚にあたる極楽寺流北条氏を介した泰盛与党であったとして時国の事件に連座する形での自害と解釈されている(家時の義母(父頼氏の正室)は北条時盛の娘であり、その兄または弟である時国は家時にとって義理の外叔父であった)。 しかし、近年の研究においては、泰盛も頼綱も時宗の政治路線の継承者であり、時宗が亡くなった直後においては、その際に行われた「弘安徳政」も時宗によって企画・準備されたものが明らかであったので頼綱派も当初はこれに異を唱えなかったとされており、家時の自殺をその後の泰盛派と頼綱派の対立に関連づける必要はないとの説も出されている。従って、時国の事件も霜月騒動と関連したものであるかについては注意を要するところである。今のところ、時国が事件を起こした理由について窺える史料はない。 但し、同じ頃(弘安7年8月とされる)には、時国の伯父(時盛の次男)である北条時光が謀叛を画策したとの嫌疑によって佐渡国に配流されており、これが時国の事件と関連があるかは不明だが、この二つの事件によって佐介流北条氏が没落したことは確かで、代わって同じ時房流である大仏流北条氏が隆盛してゆくこととなる。また、曾祖父・時房以来継承された丹波国の守護職も没収され、佐介流は時国の従兄弟である北条盛房に引き継がれた。
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