「ネエ小唄」騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:27 UTC 版)
1936年(昭和11年)、「忘れちゃいやヨ」をレコーディング。作曲者の細田義勝に歌中の「ネエ」の部分の歌い方を何度も指導されて、本人は辟易して歌ったが、その直後に早稲田大学野球部の応援歌の発表会で歌ったところ、観客に大ウケしたため、本人にもヒットの予感があったという。ところが、発売から3ヵ月後、ちょうどヒットの兆しが見えた頃に、内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』と指摘され、ステージでの上演とレコードの発売を禁止する統制指令が下る。 ヒットを惜しんだビクターは、改訂版として「月が鏡であったなら」とタイトルを変更し歌詞の一部分を削除してレコードを発売、大人気を得る。しかし、このヒットによりこの種の曲『ネエ小唄』ブームが起こり、「あゝそれなのに」(美ち奴、のち発売禁止)「ふんなのないわ」(ミス・コロムビア)「憎いわね」などの類似曲を続々と生み出す結果となった。この状況を快く思わなかった軍部が主導になり、日本における流行歌の傾向を意図的に変えさせようと、「国民歌謡」を誕生させるキッカケとなる。渡邊も続いて、「とんがらかっちゃ駄目よ」をヒットさせるが、ビクターの内紛と一連のネエ小唄騒動で、1年間の休業をすることになった。
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