「オメガトライブ」というプロジェクト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 21:09 UTC 版)
「オメガトライブ」の記事における「「オメガトライブ」というプロジェクト」の解説
杉山清貴&オメガトライブのメンバーは、後日「”オメガトライブ”は、バンドでは無く、プロジェクトであり、自分達はその一員であった。」と答えている。 藤田が考えるオメガトライブというプロジェクトを、林哲司主導の下で楽曲制作を行う。またレコーディングではプロデューサーである藤田浩一の製作に対する要求が高い為に、バックコーラスも含めプロのスタジオ・ミュージシャンが演奏したため、ボーカルの杉山以外のメンバーはレコーディングに関わっておらず、アマチュアバンド「きゅうてぃぱんちょす」のメンバーは、バンド名や制作した楽曲を全て封印し、「オメガトライブ」を演じるバンドになった。 バンドは名付けられ、オリジナル作品は制作出来ず、作品は準備され、演奏はスタジオ・ミュージシャンの演奏をなぞる。ビジュアル・イメージは絶えず「海」「夏」「リゾート」がつきまとう。 そのため、メンバーは「楽曲を与えてもらって、それを売らなきゃいけない使命感が物凄くあって、その使命感の中で疲れ果てて」しまい、また「いつか売れたら、自分たちで曲を作り、演奏もしたい。そこで挫折したら自分たちの責任だし納得もする。ところが、売れたらますますその願いは叶わず、いつしか与えられるだけで、なにも制作に関与しない。」状況が続き、メンバー同士でツアー中の飲みの席で「年内(1985年)一杯で解散すること」をメンバーだけで決意、その意思をプロデューサーかつ社長である藤田に報告、吉田が一足先に脱退後、1985年12月24日で解散となった。解散を切り出したのは杉山、解散に賛成は廣石と大島と吉田、反対は高島と西原であったが、最終的に満場一致での解散となった。その後、杉山はソロへ、高島と西原の活動継続の意向を尊重した藤田の意向があり、新たに加入したカルロス・トシキ、黒川照家と共に「1986オメガトライブ」の一員となった。
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