「ひろしま平和の歌」
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1947年の半ばに、当時の広島市長で、広島市を平和運動の中心地とすることを提唱していた浜井信三は、「8月6日に焦点を会わせた大規模な平和祭典を開催すれば、人々に対する強いアピールになろうし、それは国外にも及ぶだろう」と考えていた広島市観光協会 (Tourism Association of the City of Hiroshima) の石島治志の発案による計画を採り上げた。 1947年6月には、広島平和祭協会が創設され、浜井が会長、石島が副会長となり、7月には「平和の歌」の歌詞の公募が行なわれて22日に「ひろしま平和の歌」が選ばれた。山本が曲を付けたこの歌詞を書いた重園贇雄も、音楽教師であった。この歌は、同年8月6日の広島平和祭(後の広島平和記念式典の前身)で初演され、以降、朝鮮戦争が勃発し原子爆弾の使用の可能性が取りざたされる中で占領軍当局からの圧力によって式典が中止された1950年を除いて、毎年歌われ続けている。
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「ひろしま平和の歌」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 00:06 UTC 版)
1947年の半ばに、当時の広島市長で、広島市を平和運動の中心地とすることを提唱していた浜井信三は、「8月6日に焦点を会わせた大規模な平和祭典を開催すれば、人々に対する強いアピールになろうし、それは国外にも及ぶだろう」と考えていた広島市観光協会 (Tourism Association of the City of Hiroshima) の石島治志の発案による計画を採り上げた。 1947年6月には、広島平和祭協会が創設され、浜井が会長、石島が副会長となり、7月には「平和の歌」の歌詞の公募が行なわれて22日に「ひろしま平和の歌」が選ばれた。選ばれた重園の歌詞に曲を付けた山本秀も、音楽教師であった。この歌は、同年8月6日の広島平和祭(後の広島平和記念式典の前身)で初演され、以降、朝鮮戦争が勃発し原子爆弾の使用の可能性が取りざたされる中で占領軍当局からの圧力によって式典が中止された1950年を除いて、毎年歌われ続けている。
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