菅原伝授手習鑑 解説

菅原伝授手習鑑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 00:45 UTC 版)

解説

天神伝説や飛梅伝承など、菅原道真にまつわる民間信仰天神信仰)は古くからある。浄瑠璃においては古浄瑠璃『天神御出生記』や宇治加賀掾が語った『虎巻菅丞相』があり、さらに近松門左衛門作の『天神記』が正徳4年(1714年)に初演されているが、本作はそれら先行作を下敷きにし、当時大坂で生れた三つ子誕生の話題なども当て込んで創作された義太夫浄瑠璃である。

学問の神として広く崇敬を受けていた天神様こと菅原道真の姿を見せたこと、また三つ子を貴族が使う牛車の牛飼いとして配置し、庶民にも貴族の政争の影響が及ぶ様を描いたこと、そして劇的な展開を備えたことにより本作は初演当時大当りし、翌年の延享4年3月まで続演されるほどで、同年2月には江戸堺町の肥前座でも上演され、これも大当りを取る。また歌舞伎で初めて上演されたのは竹本座の初演からわずか2ヶ月後の延享3年10月の京都浅尾元五郎座であった。のちに翌延享4年5月、江戸の中村座市村座で興行され、中村座では8ヵ月にわたる大当りとなっている。

義太夫浄瑠璃の人気を大いに高め、この初演から一年以内に上方と江戸の双方で人形浄瑠璃と歌舞伎の両方が初演されるという、当時としては驚異的な記録となった作品であり、江戸肥前座での初演に際しては、今でいう「割引券を配布するキャンペーン」を市中の寺子屋に対して行ったこともあり、いよいよ本作の評判を高めた。後世『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』と共に、義太夫浄瑠璃の三大名作と評価され、歌舞伎においても義太夫節に合せて演じられる義太夫狂言の傑作の一つとされる。今日でも四段目の「寺子屋」を中心によく上演される人気の演目である。

以下、主要な場面の見どころについて解説するが、人形浄瑠璃では浄瑠璃の本文通りの段組みで上演され、歌舞伎では通し狂言は稀で、人気のある場面が単独で上演される事が多い。その際、演目名も以下のように『菅原伝授手習鑑』とは別の通称が用いられている。

  • 二段目の切・杖折檻の段~丞相名残の段 → 道明寺どうみょうじ
  • 三段目の口・車曳の段 → 車曳くるまびき
  • 三段目の切・茶筅酒の段~桜丸切腹の段 → 賀の祝がのいわい
  • 四段目の切・寺入りの段~寺子屋の段 → 寺子屋てらこや

加茂堤

初段の中にあたる。原作の浄瑠璃では「引き捨つる車は松に輪を休め。舎人二人は肘枕…」と、舎人すなわち牛飼いの梅王丸と松王丸のふたりが居眠りをし、目を覚ますところで始まるが、歌舞伎ではこの幕に梅王松王は出ず、幕が開くと仕丁に扮した名題下の役者たちが並び渡り台詞を言ったあと、桜丸が出てきてそれら仕丁をよそへやらせる、という段取りになっているのが普通である。文楽では原作通りに梅王松王は出ている。桜丸と八重が苅屋姫を、うぶな様子にもどかしがって親王のいる牛車に押し入れるが、近代以降には官憲を憚って舞台上の牛車に親王と姫を入れず、「木陰へこそは」云々と竹本に語らせ、ふたりをいったん舞台上手へと引っ込ませるという演出であった。現在ではこれも原作通りとなっている。

なお、梅王・松王・桜丸の兄弟について松王丸が長兄であるとする向きがあるが、それは誤りである。この「加茂堤」において梅王丸が松王丸に、「(菅丞相が)おれを兄のお心でか梅王丸とお呼びなされて召使はるゝ」と語っており、また梅は一年の内で他に先駆けて花を咲かせることから、「花の兄」と呼ばれている。ゆえに三つ子ではあるが敢えて順をつけるとすれば梅王が長男、松王が次男、そして桜丸が三男ということになる。他に梅王丸が父の四郎九郎(白太夫)と同様に菅丞相の舎人であるという点でも、長兄と考えられる。

一方で、歌舞伎の『賀の祝』の喧嘩(三段目・喧嘩の段)において、東京式の上演では、松王丸が梅王丸に対して「お兄いさまを足蹴にしたな」と言う場面がある。さらに、この前後の段である「車曳」や「寺子屋」での扱いが、松王を長兄と誤解させている点も否めない。

筆法伝授

「筆法伝授」 初代中村吉右衛門の武部源蔵(左)、六代目尾上菊五郎の菅丞相(右)。昭和18年1月、歌舞伎座

初段の切。菅丞相の品格と、筆法伝授を受ける武部源蔵の芝居が眼目であるが、劇としてはのちの「寺子屋」ほどの盛上りはないので、歌舞伎では古くは菅丞相と源蔵を二役早替りで演じるやり方もあった。希世は源蔵が丞相の目の前で書をしたためるのを邪魔するが、最後は寺子屋で叱られる子供よろしく、源蔵と戸浪に机を体に縛り付けられ、ほうほうの体で逃げ出す。いわば道化がかった公家の敵役だが、この希世がよくないと「筆法伝授」自体も面白くないといわれている。八代目竹本綱大夫もこの希世について、左中弁という公家としての品格をもたせ、そこに三枚目的な要素を加えて語らなければならないので「さう簡単にはゆきかねます」と述べている。

しかし「筆法伝授」は文楽においては演じられていたものの、歌舞伎では近代以降長らく上演が絶えていた。そこで六代目尾上菊五郎初代中村吉右衛門が、昭和18年(1943年)に文楽のやり方をもとにして復活上演し、以後これが現在にまで伝わっている。

この後に続く「築地の段」では菅丞相は失脚し館は閉門となる。このとき梅王丸が源蔵たちに菅秀才を託すのが、のちの四段目切「寺子屋」への伏線となっている。

土師の里館(道明寺)

二段目の切。この段を「道明寺」ともいうのは、この館がのちに道明寺となったという由来を物語るところからきている。「東天紅」とは鶏の鳴き声、または鳴いている鶏のことである。

菅丞相役の役者やこの段を語る文楽の太夫は、「天神さま」という信仰の対象であることもあって、舞台に立つ時は精進潔斎してこれを勤める。土師の里館は殺人事件、木像の奇跡、そして丞相親子の別れなど、いくつもの話が詰まった密度の濃い内容で、数ある義太夫浄瑠璃のなかでも複雑かつ、見どころの多い段となっている。また登場人物も多岐にわたることにより、これを一人で語り分ける浄瑠璃の太夫には高度な技芸が要求される。歌舞伎では大規模な座組み(配役)が必要となり、菅丞相役の適任者が少ないこともあって頻繁な上演が難しい演目である。

「筆法伝授」の菅丞相は一応誰にでも勤まるが、この「道明寺」の菅丞相は演じる役者を厳しく選ぶといわれ、文楽の人形遣いにおいても、菅丞相はじっと動かずに腹だけでその品格を見せなければならない至難の役とされている。覚寿も歌舞伎においては難役とされており、いわゆる「三婆」の一つに数えられる。なお立田の死骸を池から引き上げる下部は通称「水奴」と言い、歌舞伎ではこれをご馳走役として人気の名題役者が勤めることが多い。

菅丞相は気品と貫禄が要求される大役であるが、さらに木像の菅丞相と、生身の菅丞相との演じわけも演じる役者にとっては難しいところだという。古くは二代目嵐三五郎、三代目尾上菊五郎、近代以降では九代目市川團十郎十一代目片岡仁左衛門五代目中村歌右衛門初代中村鴈治郎七代目松本幸四郎など歴代の名優が演じ、近年では十三代目片岡仁左衛門の丞相が「神品」と最高級の絶賛を浴びた。

車曳

「車曳」 七代目松本幸四郎の藤原時平。昭和6年(1931年)4月、明治座

三段目の口。車曳の段は人形浄瑠璃では端場として重要視されていなかったが、歌舞伎では梅王丸=荒事、松王丸=実事、桜丸=和事の三様の人物がそれぞれ役柄に合った演技を見せる場となっており、歌舞伎の様式美が凝縮された演目となっている。時平は天下をねらう権力者で歌舞伎では公家悪という役柄として怪異な風貌で登場する。

歌舞伎では松王丸の出る前に、杉王丸という原作の浄瑠璃にはない人物が登場する。これも時平に仕える白張を着た前髪の若衆であるが、松王丸が通常座頭級の役者によって演じられるので、松王丸の役をより大きく見せるための入れ事である。

梅王は荒事ということもあり、最初の出では二本差し(刀を二本、帯刀した姿)で登場するが、花道から一旦引っ込んでの再登場ではさらに長い刀を差した「三本太刀」になるのが一般的である。また松王は普通、二本差しだが、市川宗家(團十郎家)や関わりの深い役者が演ずる場合には特別に、梅王と同じく三本太刀となる。

上方では桜丸は和事を強調し隈をとらず、梅王丸とともに時平と対峙したとき「斎世親王菅丞相、讒言によってご沈落」と言うところ、「ご沈落」で泣き落しになるが、東京では桜丸はむきみ隈を取り、泣き落しはない。背景も上方は背景を野遠見(田園風景の背景)と神社の塀の二つとするが、東京は最初から神社の塀で場面転換を行わない。戦前では上方は梅王・松王・桜丸それぞれにツケ打ちが付いていて、三人が見得をする時はかなりの音量が出たという。三兄弟が時平の車の前で争い、竹本の「現れ出でたる時平の大臣おとど」で時平が車を破って登場、「時平に向かって緩怠なり」と一睨みで梅王と桜丸を押さえつけたあと、「命冥加な蛆虫めら」と真っ赤な舌を出して悪の力溢れる見得をするところがこの幕の見どころである。

様式美が求められる場なので役者の格で見せる。戦後では昭和50年(1975年)、歌舞伎座での二代目尾上松緑の梅王・七代目尾上梅幸の桜丸・八代目松本幸四郎(初代白鸚)の松王・十三代目片岡仁左衛門の時平が最高の出来だったと言われる。

賀の祝

三段目の切。これまでの貴族の世界(時代物の世界)から、一見のどかで庶民的な話となる。だが菅丞相の庇護のもと、つつがなく暮していた白太夫一家が政変により一気に瓦解してしまう。政治の横暴が庶民を苦しめる。白太夫は上の息子二人に去られ、桜丸とは今生の別れをすることとなる。なお白太夫という名は能の『道明寺』や近松の『天神記』でも使われている。三つ子の妻達には、夫の名に因んだ名がつけられている(千代八重)。歌舞伎では「茶筅酒」のくだりは省略されることが多い。

桜丸の切腹は、あくまでも牛飼いなのだから「武士の切腹」ではなく、本来の作法を知らぬ者が切腹する様でなければならないといわれているが、このとき肌を脱いであらわす襦袢の色は、役者の考え方で違っている。上方では白が主流である。初代中村鴈治郎は赤に紗をかけて桜色にしていた。東京は、様式美を重視する傾向があるので様々で、上方とおなじ白の他に、赤の下に白を着るやり方(十五代目市村羽左衛門七代目坂東三津五郎)、水色(六代目尾上菊五郎)を着るやり方などがある。古風な白、赤、近代的な水色とそれぞれ特徴が見られる。

白太夫は自らの賀を祝う日に、息子たちがバラバラとなりついには我が子桜丸の死を看取る悲劇的な役割で、なおかつ、頑固一徹な百姓親爺でありつつも最後まで親としての温情を失わない難しい役である。十一代目・十三代目の片岡仁左衛門が親子二代、ともに当り役としていた。

寺子屋

「寺子屋」 初代中村吉右衛門の松王丸。昭和7年(1932年)4月、東京劇場

四段目の切。身替り、もどりなど義太夫浄瑠璃の特徴的な作劇法を駆使して作り上げられた悲劇である。歌舞伎では上演時間の都合上、「寺入り」の部分を省略することが多い。「せまじきものは宮仕へ」という名ぜりふはこの「寺子屋」からきているが、歌舞伎の関西の型ではこれを竹本に語らせて芝居をし、東京では源蔵がせりふで言うやり方をしている。

ちなみに平安時代には寺子屋は当然無かった。これは当時の作劇において時代考証に対する意識が薄かったことと、寺子屋や教育に熱心な家庭では「天神さま」の像を祀る習俗があり、江戸時代の観客にとっては「天神さま」とのつながりが深い場所であったことによる。

この場でのクライマックスは、松王丸が首実検で小太郎の偽首を見る場面である。舞台中央平舞台に松王が首桶を前にし、上手には玄蕃が、下手では刀を握りしめた源蔵と戸浪が松王を見つめ、その様子をうかがっている。ここでの首実検をする松王の型は、歌舞伎では古来さまざまあったが、今日でも見られるのは大きく分けて以下の二つの型である。

(1)首桶を開けて蓋を手前に置き、その蓋の上に両手を軽く突きながら首を見下ろす、首を見て「菅秀才の首に…」と低い声で言うと、「相違ない」で下手の源蔵の方を見、「相違ござらぬ」で上手の玄蕃の方を見、「でかした源蔵」で首桶に蓋をして「よく討ったなア」で右手を上げる、という型。役者により細かい違いはあるものの、大筋としては今日のスタンダードな型である。

(2)市川團十郎家の型では、松王が刀を抜いて派手な姿を見せる。この場合は、なかなか動き出さぬ松王に苛立った玄番が首桶の蓋を取り中身を突き出し、それを受けて松王は刀を抜き、切っ先を源蔵に向ける。また、実検後は先述(1)の台詞に即すと「でかした源蔵、よく」と言いつつ、刀を左手に持ち替えて後、「討ったなア」で右手を上げる、という段取りになる。これは七代目團十郎が創始した型とされ、その後は九代目團十郎から(九代目の高弟だった七代目松本幸四郎を経て)後代の團十郎家の役者に継承されている。

なお、これとは別に二代目實川延若も刀を抜いての実検を演じているが、その由来は不明である。

初代吉右衛門はこの松王の首実検について、「盛綱(『盛綱陣屋』の佐々木盛綱)などに較べればずっとアッサリ演ります。却って、首を見る迄の思入や腹の方が大切なわけでしょう。果して源蔵が小太郎を討ってくれたかどうか、それを心配しているわけですから。……首桶の蓋を開けて一目見たら、我が子の首ですから、もう途端に分る訳です」と述べている[1]

但し松王が首実検をする場所は古くは舞台中央ではなく、もっと舞台上手寄りだったと 川尻清潭などが指摘しており、それが舞台中央になってしまったことを非難している。すなわち上手にいる玄蕃のそば近くだったということで、そうなると舞台中央が空いて人物が上手(玄蕃・松王)と下手(源蔵・戸浪)に分かれるが、使者(玄蕃・松王)とその使者を迎える者(源蔵・戸浪)という筋からいえば、このほうが正しいという。

歌舞伎では幕切れについて、古くは「冥土の旅へ寺入りの…」ではじまる悲痛な「いろは送り」を割ぜりふにして幕としていたが(歌舞伎の義太夫狂言としては、最後は割ぜりふになるのが本来である)、のちに文楽に倣い、「いろは送り」の浄瑠璃を竹本に語らせ皆が小太郎の霊を弔ったのち、舞台中央の二重舞台に菅秀才と御台所、上手に源蔵戸浪、下手に松王千代が並び、引張りの見得で幕とするようになった。

「寺子屋」は各時代の名優たちが手がけた演目のひとつでもあるだけに、これにまつわるエピソードも多い。初代市川鰕十郎が源蔵を演じた時、うっかり首桶の中に首を入れるのを忘れてしまった。松王を演じていたのが五代目市川海老蔵(七代目團十郎)であったが、首実検の際に蓋をとれば肝心の首がない。一同凍りついたが海老蔵は無言で蓋をし、「源蔵改めて受取ろう」と首桶を返して鰕十郎を引っ込ませたあと、玄蕃役の役者に向かって「のう玄蕃殿、主の首を討つほどな源蔵ゆえ、首を忘れるも無理はござらぬ…」とアドリブで台詞を言いその場を収めた[2]

明治20年(1887年)、井上馨邸で天覧歌舞伎が行われ、皇后美子(昭憲皇太后)も臨席のもと『寺子屋』が演じられた。皇后は『寺子屋』を見て涙したが、劇中、道化役が演じるよだれくりは、戸浪に叱られ罰として線香と茶碗を持って立たされている。観劇が終り井上邸からの帰途、明治天皇はよだれくりについて「あの男は家でも線香と茶碗を持っているのか」と侍従徳大寺実則に尋ねた。「いえ、彼は中村鶴蔵という道化役で、舞台では人を笑わせますが、家では真面目で篤実な者でございます」との返答に御機嫌よく「おかしき奴なり」とご沙汰があった、天下に名優といわれる團十郎や菊五郎ですら何のお言葉も賜らなかったのに、鶴蔵はよくよくの幸せ者だと実則は後に鶴蔵に語った。これを聞いた鶴蔵は、あまりの勿体なさに畳にひれ伏し泣いたという[3]

十一代目市川團十郎が、松本金太郎と名乗っていた子役の頃のこと。「寺子屋」に菅秀才役で出たが、幕開きに他の子供たちと手習いをする場面で紙に「ハルオハルオ」と書いていた。本名が堀越治雄ほりこしはるおだったからである[4]

第二次世界大戦後、松本幸四郎らが演じていた「寺子屋」の段が反民主主義的であるとして、連合国軍最高司令官総司令部から上演中止命令を受けた[5]二代目松本白鸚は、「自分が子役で出た頃(戦後)は、寺子屋など子供が犠牲になる芝居では観客がよく泣いたのを不思議に思った。後年、戦死者の遺族だったと思い当った」と語っている[6]


  1. ^ 『吉右衛門自伝』。『歌舞伎見どころ聞きどころ』135頁参照。
  2. ^ 『尾上菊五郎自伝』、「歌舞伎座を観て家橘に誨ふ」。『五代尾上菊五郎 尾上菊五郎自伝』(『人間の記録』42 株式会社日本図書センター、1997年)91頁。
  3. ^ 『続々歌舞伎年代記』巻の貮拾。『続々歌舞伎年代記』乾巻(田村成義編、1922年)468頁。
  4. ^ 『歌舞伎 ちょっといい話』(『岩波文芸文庫』文芸98)3頁。
  5. ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、11頁。ISBN 9784309225043 
  6. ^ 要約、国立劇場第227回歌舞伎公演筋書。






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