栗林忠道 逸話

栗林忠道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 18:46 UTC 版)

逸話

  • 陸大次席の秀才であり、「太平洋戦争屈指の名将[7]」と讃えられる優れた軍人であったが、同時に良き家庭人でもあり、北米駐在時代や硫黄島着任以降には、まめに家族に手紙を書き送っている。アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、栗林直筆のイラストを入れた絵手紙になっている。硫黄島から次女たか子(「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。硫黄島着任直後に送った手紙には次のようなものがある。実際の手紙は、防衛省に保管されている。
「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」
  • 妻宛てには、留守宅の心配や生活の注意などが事細かに記され、几帳面で情愛深い人柄が偲ばれる。これらの手紙はのちにまとめられて、アメリカ時代のものは『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫、2002年)、硫黄島からのものは『栗林忠道 硫黄島からの手紙』(文藝春秋2006年)として刊行されている。なお、留守宅は東京大空襲アメリカ軍による日本本土空襲)で焼失したが、家族は長野県疎開しており難を免れている。
  • 弟の栗林熊尾が兄の後を追って、長野中学から陸軍士官学校へ進学したいと言い出したとき、栗林は陸軍では陸軍幼年学校出身者が優遇され、中学出身者は陸軍大学校を出ても主流にはなれないからと、幼年学校が存在しない海軍兵学校へ行くように薦めている。熊尾は海軍兵学校受験に失敗し、陸軍士官学校に入校したが(第30期)[注釈 9]、卒業後に肺結核で夭折、栗林は弟の死を嘆いた。
  • もともと新聞記者志望ということもあり、文才のある軍人としても知られていた。陸軍省兵務局馬政課長として軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わった際は、歌詞の一節に手を入れたという[7]
  • 時間に厳格であり、近衛師団長時から栗林が硫黄島で戦死するまで副官を務めた藤田正善中尉が、毎朝出勤する栗林を官舎まで自動車で迎えに来たが、それが予定時間から少しでもずれていると「今日は30秒早い」や「今日は30秒遅い」と叱責したという。藤田は門の前に停車してぴたりとした時間に栗林を呼ぶようにしたが、ある時、藤田が栗林にこの意図を確認したところ「勝敗は最後の5分間というのはナポレオン時代の話であり、その何十倍もスピード化した現代では、最後の勝敗を決するのは30秒だ。30秒間に機銃弾が何百人の部下を倒すか計算したことがあるか?」と言われ、藤田は栗林の意図を理解して粛然としたという[67]
  • 部下たちに対してよく口にしたことばが「作戦のために身体をこわして死んだ参謀はひとりもいない」であり、前線で戦う兵士に対して自分たち司令官や参謀は恵まれていると自戒しながら作戦指揮にあたっていた[68]
  • 清潔好きであり、軍務でも家庭でも整理整頓や清掃にはきびしかった。しかし、硫黄島の住環境は清潔さとは程遠く、また大量に生息する「油虫と云うグロテスクの不潔虫」やアリに苦しめられており、たびたび家族に宛てた手紙でそのいとわしさを書いている[69]
  • 車好きであり、アメリカ勤務時にはシボレーセダンを現地で購入したことを手紙で家族に報告している[70]。運転技術も高く、第23軍参謀長時には軍属で裁縫師の貞岡信喜を連れてよくドライブをしていた[71]。貞岡は栗林を慕って「うちの閣下」と呼んでおり、硫黄島にも一緒に行きたいと転属願いまで出したが、栗林は貞岡を叱り飛ばしその申し出を却下している[72]
  • 自由民主党衆議院議員新藤義孝は、栗林の(次女・たか子の子供)に当たる。2015年(平成27年)4月30日安倍晋三首相アメリカ合衆国議会合同会議の演説の場で、硫黄島の戦い米海兵隊大尉として参加したローレンス・スノーデン海兵隊中将と握手した[73]
  • 2012年(平成24年)4月、栗林の墓がある長野市松代町豊栄の明徳寺に、長野の市民団体が中心となり、長野中学出身の栗林忠道陸軍大将と今井武夫陸軍少将の顕彰碑が建立された。

注釈

  1. ^ 栗林は1945年(昭和20年)3月17日付で戦死と認定されたため[2]、3月17日付で陸軍大将に親任され(戦死による)[1]、栗林の後任として立花芳夫中将が3月23日付で第109師団長に親補され[3]、「秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年」61ページの「第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-栗林忠道」では栗林の出生および死去年月日を「明24・7・7 - 昭20・3・17」と記載している。一方、栗林の出生および死去年月日を「明治24(1891)7・7生 - 昭和20(1945)3・26没」と記載している「半藤 2013b, 位置No. 3720/4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)」は、【凡例】に「本表は秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』記載の「主要陸海軍人の履歴」を底本とし各種文献・史料を参照のうえ、加除、修正して作成している」と記しており、『半藤 2013b』は半藤一利・横山恵一・秦郁彦原剛の4名の共著である。
  2. ^ 栗林は金鵄勲章を受章していない[2]半藤一利は「功一級でもおかしくないのにね」と評している[2]
  3. ^ 栗林忠道の妻である栗林義井は、旧姓も栗林であるが、二人の間に特に血縁関係はない[7]。義井は川中島付近(現・長野市氷鉋[10])の地主の娘[7]
  4. ^ 留守師団とは、内地及び朝鮮を衛戍地とする師団が戦地に動員された際に、動員された師団の衛戍地に、陸軍動員計画令によって設置され、留守・補充業務などを行う師団[14]近衛第2師団スマトラ島方面に動員されていた。師団長親補職であるが[15]、留守師団長は親補職ではない[16]
  5. ^ 1944年(昭和19年)6月に栗林が留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じた後、同年7月には留守近衛第2師団を母体として近衛第3師団が編成されている。
  6. ^ 昭和20年3月17日付で栗林の戦死が認定されたことにより、父島にいた混成第1旅団長の立花芳夫陸軍少将が、3月23日付で陸軍中将に進級し、栗林の後任として第109師団長に補されている[7]
  7. ^ 小元は栗林の高級副官であったが、アメリカ軍上陸直前にに大本営に出張していたため、硫黄島に帰ることができず戦死を免れた[55]
  8. ^ 新聞発表では、「悲しき」の部分を「口惜し」と改竄の上、発表された。
  9. ^ 長野中学からのもう一人の同期生は今井武夫陸軍少将である。

出典

  1. ^ a b 半藤 2013b, 位置No. 3720-4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)
  2. ^ a b c d 半藤 2013a, 位置No. 85/119, 第一章 大将の誕生-ほとんどが金鵄勲章佩用者
  3. ^ a b 秦 2005, pp. 370–382, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-9.部隊/師団-A 師団
  4. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年12月24日閲覧。
  5. ^ 小林 2009, p. 110.
  6. ^ 秦 2005, p. 61, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-栗林忠道
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 半藤 2013b, 位置No. 2860-3049, 第四章 戦没した将軍たち-栗林忠道 太平洋戦争屈指の名将
  8. ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.355
  9. ^ 秦 2005, pp. 545–611, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生
  10. ^ a b c 梯 2013, 位置No. 407/423, ドキュメント1 栗林忠道 その死の真相-栗林家に保存された一通の手紙
  11. ^ 生い立ち~現在 | 新藤義孝公式ウェブサイト”. www.shindo.gr.jp. 新藤義孝. 2018年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月9日閲覧。
  12. ^ ニューカム 1966, p. 5
  13. ^ 小谷秀二郎 1978, p. 48
  14. ^ 秦 2005, p. 777, 第5部 陸海軍用語の解説-る-留守師団
  15. ^ a b c d 秦 2005, p. 744, 第5部 陸海軍用語の解説-し-親補職
  16. ^ 『留守師団長上奏に関する件』 レファレンスコード C01001578700”. アジア歴史資料センター. 2018年8月20日閲覧。
  17. ^ 小谷秀二郎 1978, p. 50
  18. ^ 児島襄 1970, p. 14
  19. ^ 梯久美子 2015, p. 60
  20. ^ 児島襄 1970, p. 17
  21. ^ 児島襄 1970, p. 31.
  22. ^ 梯久美子 2015, p. 59
  23. ^ 児島襄 1974, 電子版, 位置No.1043
  24. ^ 児島襄 1970, p. 59
  25. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.393
  26. ^ a b "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"
  27. ^ 下田四郎 2014, p. 59
  28. ^ 佐藤和正 2004, p. 148
  29. ^ 岡村青 2018, p. 129
  30. ^ 佐藤和正 2014, p. 147
  31. ^ 岡村青 2018, p. 130
  32. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.376
  33. ^ 小谷秀二郎 1978, p. 156
  34. ^ 児島襄 1974, 電子版, 位置No.1050
  35. ^ 戦史叢書・13 1968, p. 361
  36. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月26日閲覧。
  37. ^ Derrick Wright, The Battle for Iwo Jima, Sutton Publishing, 2006. Page 80.
  38. ^ 児島襄 1970, p. 156
  39. ^ 児島襄 1970, p. 161
  40. ^ 山口 2005, p. 744, 第一節 「陸軍大将」誕生の条件
  41. ^ a b 秦 2005, p. 749, 第5部 陸海軍用語の解説-た-大将
  42. ^ {注:3語不明}[要出典]
  43. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.1740
  44. ^ 児島襄 1970, p. 272
  45. ^ a b 戦史叢書・13 1968, p. 411
  46. ^ 小谷秀二郎 1978, p. 198
  47. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月28日閲覧。
  48. ^ Operation Detachment: The Battle for Iwo Jima February - March 1945”. 2021年11月29日閲覧。
  49. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.159
  50. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.444
  51. ^ 伊藤正徳・4 1960, p. 109
  52. ^ Operation Detachment: The Battle for Iwo Jima February - March 1945”. 2021年11月28日閲覧。
  53. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月28日閲覧。
  54. ^ SAPIO』2006年10月25日号、小学館。[要ページ番号]
  55. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.128
  56. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.211
  57. ^ "明徳寺にある陸軍中将 栗林忠道之墓". 観光スポット. 信州松代観光協会. 2023年8月26日閲覧
  58. ^ ニューカム 1966, p. 19
  59. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年12月17日閲覧。
  60. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月28日閲覧。
  61. ^ ニミッツ 1962, p. 425
  62. ^ 戦史叢書・13 1968, p. 306
  63. ^ 戦史叢書・13 1968, p. 396
  64. ^ 戦史叢書・13 1968, p. 412
  65. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月28日閲覧。
  66. ^ ビーヴァー 2015, p. 337
  67. ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.487
  68. ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.603
  69. ^ 児島襄 1970, p. 29
  70. ^ 梯久美子 2015, p. 巻頭写真
  71. ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.442
  72. ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.460
  73. ^ “新藤前総務相:硫黄島戦参加の元米中将と握手 米議場で”. 毎日新聞. 毎日新聞社. (2015年4月30日). オリジナルの2015年5月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150502220120/http://mainichi.jp/select/news/20150430k0000e010140000c.html 2017年2月26日閲覧。 
  74. ^ 『官報』第2602号附録、昭和10年9月3日。
  75. ^ 『官報』・付録 1941年11月14日 辞令二






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