松山城放火事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 13:06 UTC 版)
犯人逮捕
熊本県警察は放火現場に血と膿が付着した紙くずから犯人の特定に成功。おりしも愛媛県に朝香宮訪問に伴う厳戒体制にあった1936年(昭和11年)5月に宇和島市に偽名で宿泊中の古川某(当時34歳)を逮捕した。古川は当時梅毒に罹患しており、そのため手足から血膿がふいていた。逮捕後西日本各地で学校や寺院などに対する45件の放火と列車妨害にくわえ8件の窃盗を自供し、動機として「火を見ると興奮する」や「焼けば大工や左官の仕事がふえる」など屈折した心理が垣間見えていた。
犯人の背景
犯人の男性は1902年(明治35年)に福井県勝山で生まれたが、家庭環境に恵まれず、そのため少年の時代から常習的に窃盗を繰り返しており、連続放火犯として逮捕されたときには前科7犯で刑務所と一般社会を往復していた人生であった。20歳のときには徴兵検査を受けず憲兵に追われ、翌年逮捕された。連続放火事件前に、らい病に罹患したと思い込み、巡礼八十八カ所で知られる四国を訪れた。連続放火の途中の1933年(昭和8年)には那覇の呉服店から着物50着余を盗み逮捕され、那覇刑務所に2年間服役、釈放後台湾に渡り、高雄署で浮浪罪で半年近く収監され、帰国後放火を再開、宇和島城に放火するため宇和島に舞い戻ったところを逮捕された。
一連の放火で犠牲者は出ていなかったが、1937年11月12日に松山地裁は刑法の放火罪では最高の死刑を宣告し、2審の広島控訴院(現在の広島高裁)も控訴を棄却し、1939年9月15日に広島刑務所で死刑が執行された。
その他
脚注
- ^ 「名城松山城ほとんど全焼、放火か」『東京朝日新聞』1933年7月10日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p.17 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、71頁。ISBN 9784816922749。
固有名詞の分類
- 松山城放火事件のページへのリンク