松山城放火事件 事件の概要

松山城放火事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 13:06 UTC 版)

事件の概要

松山城放火事件

放火犯が最初の犯行に及んだのは1932年(昭和7年)9月15日のことで、まず道後温泉にある道後ホテルが炎上し、19時間後には近くの曹洞宗護国山・義安寺も炎上した。当初警察失火放火かを断定していなかったにもかかわらず、地元新聞社は放火によるものと憶測記事を掲載した。これは松山のシンボルである松山城が標的にされることを恐れて警鐘のためであったが、不幸にもそれが現実になった。

そして1933年(昭和8年)7月9日、放火により松山城小天守閣やぐら付近から出火。全市の消防隊が動員されたほか警官隊、青年団、在郷軍人会、松山連隊などが総出で消火にあたった[1]天守類焼を免れたが、小天守・南北隅櫓・多聞櫓が焼失した。その後地元紙「海南新聞」(現在の愛媛新聞)に対し、放火犯からと思われる手口を詳細にしるした手紙が寄せられるようになったが、犯人はなかなか判明しなかった。

西日本13府県連続放火事件

犯人は1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)までの4年間に45箇所(有罪となったのは37箇所)に放火し、被害額120万円を与えた。放火したのは寺院学校などの大きな建物で、松山城のほか和歌山県天理教和歌山教務支庁、那覇沖縄県立第二高等女学校が焼失した。また熊本県では列車妨害事件を引き起こしていた。

全焼など被害の大きかった建物 - 松山市・道後ホテル別館、同・義安寺本堂、高知市・米人宣教師宅、久留米市水天宮御守札授与所、八代市真宗専西寺本堂、大牟田市金光教四つ山教会本館と人家4戸、長崎市西中町カトリック教会と民家10棟17戸、同・西坂小学校有田町禅宗桂雲寺庫裏、同・外尾尋常小学校、武雄町・禅宗広福寺本堂、佐賀市・天理教大教会4棟、同・石油倉庫、同・循智小学校校舎2棟、久留米市・天理教会教堂、同・真宗本雲寺本堂、弥富村 (熊本県)・真言宗竜禅院本堂、竹田町・真言宗光西寺、別府市・地獄極楽堂、宇和島町明倫小学校校舎4棟、八幡浜市・6戸2階建て長屋式住宅、和歌山市・天理教会支庁2棟、堺市・天理教会支庁、堺市立錦綾小学校校舎3棟、豊岡町豊岡尋常小学校校舎2棟、鹿児島市山下尋常小学校など


  1. ^ 「名城松山城ほとんど全焼、放火か」『東京朝日新聞』1933年7月10日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p.17 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、71頁。ISBN 9784816922749 


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