捕鯨文化 救命掃海艇

捕鯨文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/23 06:32 UTC 版)

救命掃海艇

鯨船鞘廻御用(くじらぶねさやまわしごよう)
東京市史稿 産業篇によれば江戸時代の江戸城下において洪水の度、江戸湾へ流出した河川荷役の資材や危険な塵芥の回収、被災者の迅速な捜索が望まれていた。徳川吉宗は鯨舟の速さに目を付け、江戸湾における救命掃海艇の役割を担わせた。これを「鯨船鞘廻御用」と呼び、当初は役人が行っていたが、その後幕府より委託され木場材木問屋を中心に運営され、被災時だけでなく橋梁工事の普請なども行うようになった。この鯨船を格納する場所を鞘倉と呼び鯨船の細長い形状からそれを収める倉に鞘という言葉が使われたことが窺え、廻すという言葉も手配や業務を意味し「鯨船鞘廻御用」の名称になっている。
またこの救命掃海艇がどこの地域の鯨船を規範として作られたかは分かっていないが、紀州熊野太地(和歌山県太地町)の太地角右衛門頼成の覚書によれば紀州藩主であった主税守頼方(徳川吉宗)は1702年(元禄15年)と1710年(宝永7年)に紀州熊野の瀬戸と湯崎(和歌山県白浜町)で捕鯨を実施していて、この時に徳川吉宗は観覧もしている。また徳川吉宗の祖父である徳川頼宣が軍事訓練として大規模捕鯨を行っていることや、徳川吉宗が鯨山見(鯨漁の司令塔や鯨の探査の物見台)から狼煙(のろし)を使い、熊野から和歌山城まで外敵などの有事の連絡網としても利用しており、組織捕鯨に海上保安の軍事的役割を担わせていた。これらのことは徳川吉宗と捕鯨の深い結び付きを示している。

鯨と絵巻

鯨と捕鯨に関する絵巻物。出所不明のものなど含め日本には多数の絵巻物が存在する。

  • 古座浦捕鯨絵巻 - 1725年享保10年)和歌山県東牟婁郡の古座地方の捕鯨の様子を描いたものとされる。捕鯨も描かれているが、鯨絵巻でもあり11種の鯨類の図説がある。この中で「鰹鯨」とはカツオクジラのことであり、「さかまた」とはシャチのことである。作家C.W.ニコルの著書『勇魚』(いさな)の装丁にも使われている。
  • 磐城七浜捕鯨絵巻 - 1747年延享4年)森雪竹の作といわれる。現在の福島県いわき市小名浜の捕鯨の様子を描いた図説で鯨を見付け出航するところから始まり、逃げる鯨を追い込んでいく様子から、浜へ引き上げ捌いていくところまでを当時の塩作りなどの生活を背景に捕鯨の流れが良く分かるように描かれている。
  • 肥前州産物図考 - 1773年安永2年)~1784年天明4年)木崎攸々軒盛標の作。現在の佐賀県唐津地方である肥州唐津藩の捕鯨を含めた産業を描いた。
  • 小川島鯨鯢合戦 - 1840年(天保11年)秋亭里遊撰・渓柳舎希樂画 佐賀県唐津市呼子地方の小川島という鯨組の捕鯨の仕事前の段取りから仕舞いまでを描いたものであるが、合戦という言葉が使われている。これは鯨と漁師を敵と味方に見立て戦況を伝える形で物語のように表現していて、数ある絵巻物の中でも特徴的なものとし評価されている。
  • 勇魚取絵詞 - 年代、著者は不明で上下2巻からなる。江戸の国文学者である小山田与清の1829年(文政12年)の跋(奥書)があるのでそれ以前の作であることが分かる。長崎県平戸市の島である生月島の御崎浦で益冨・御崎組の鯨方の捕鯨の様子を描いた図説。
  • 大漁万祝図集 - 1845年(弘化2年)から1910年(明治43年)にわたる茨城県地方の海浜地区での捕鯨の記録。
『古式捕鯨蒔絵』:太地

捕鯨に関する書籍

捕鯨に関する歴史的書物や文献。鯨料理の書籍は鯨骨鯨肉を参照

一般書籍や文献

  • 万葉集には海などを表す枕詞として「いさなとり」という言葉が使われており捕鯨の意味であるという。
  • 鎌倉時代1277年建治3年)の鎌倉における日蓮の書状によれば「安房の国にねすみいるかとかや魚、申し候~かの大魚鎌倉にないし 家々にあふらしほり候 香り堪え候 へきやう候はす くさく」[4]とあり、鎌倉で房総で取れた鯨類と思われる大魚から油を絞っていて臭かったという様子が記述されている。なお、「ねすみいるか」が現在の「ネズミイルカ」と同一であるのかは判明していない。
  • (慶長)見聞集寛永後期)著者は三浦浄心(1565年-1644年) - 江戸と相模国三浦の見聞集であり彼が見聞きした当時の風俗習慣や産業などについてまとめたものである。巻8に「関東海にて鯨つく事」という項があり、浄心が若い頃、関東では鯨を突くことはなかったが、文禄期(1592~1596年)に尾張から鯨の突き取り漁が伝わり、寛永期までに関東で急速に普及し鯨の数が減ったことが記されている。
  • 倭漢三才図会略1712年正徳2年)寺島良安著 - 江戸時代の105巻からなる百科事典であり、著者の寺島良安は医者であったとされる。この中には鯨について詳細な記述、図説がありその中で、古式捕鯨についても触れている。また「万葉集にいさなという記述があり、鯨をあらわす古語である」と説明している。鯨については身体的特徴、習性や種別による漁の難易度などと共にセミクジラザトウクジラなど6種類紹介しており、シャチ(しゃちほこ)、コククジラを小鯨(こくじら)として記述している。
  • 「月堂見聞集」本島知辰著によれば1734年(享保19年)2月20日に下総国行徳(千葉県市川市行徳)で長さ7間(約12,7m)と5間(9,1m)の鯨2頭が捕らえられ江戸両国[5]に運ばれ江戸初の鯨の見世物が催されたとある。また「摂陽奇観」浜松歌国著によると1766年(明和3年)2月1日紀州熊野灘[6]で長さ7間半(約13,6m)の鯨が捕らえられ大坂千日の法善寺[7]に運ばれ大阪初の鯨の見世物が催されたとある。

鯨事典・捕鯨事典

  • 西海鯨鯢記1720年(享保5年)谷村友三著 - 日本で最古の鯨事典であり近畿、瀬戸内における捕鯨産業の詳細を綴った書籍でもある。
  • 鯨志1760年(宝暦10年)山瀬春政著 - 著者の山瀬春政は紀州の薬種商とされ、この著書の中で鯨の身体的特徴から生物学上の魚ではないと指摘している。なお、著者は梶取屋次右衛門とするところもあるが、同一人物であり梶取屋次右衛門が俗称である。鯨志には両方の名前が記載されている。鯨志は日本で最初に印刷された鯨関連の書籍である。
  • 鯨記1764年(明和元年) - 日本で最初の捕鯨の歴史書であり日本各地と紀州熊野地方の捕鯨を紹介している。この中で突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたの1570年頃の三河であり6~8艘の船団で行われていたとされる。紀州熊野地方では、親子鯨を捕獲しないなど様々な制約を課して捕鯨を行っていたことや鯨船が当時の和船の中で特別に速かったことなどが記述されている。
  • 鯨史稿1808年文化5年)大槻青準著 - 著者の大槻青準は平戸藩士、仙台藩学養賢堂の学頭である。彼は日本各地の捕鯨地を実際に訪れ、海外や日本各地の文献を参考に全六巻からなる著書をまとめ上げた。
    • 巻之一 - 色々な鯨の名前についての考察。
    • 巻之二 - 鯨の種類についての記述とその考察。
    • 巻之三 - 鯨の身体的特徴の図説。
    • 巻之四 - 海外や日本各地の捕鯨地の紹介と鯨の解体方法と解体用具の図説。
    • 巻之五 - 鯨漁に必要な専用の船や道具と漁場などの紹介。
    • 巻之六 - 鯨漁から解体までの一連の流れの説明。

  1. ^ 「流れ鯨」や「寄り鯨」の意味については捕鯨座礁鯨を参照。
  2. ^ ほかに漂着物や水死体などをも同様の信仰対象とした例がある。詳細はえびすを参照。
  3. ^ 大王町史編さん委員会『大王町史』321-324、892頁。平成6年8月1日。大王町発行。
  4. ^ 日蓮書状『鎌倉遺文』12830号(17巻 136頁)
  5. ^ 東京都墨田区両国
  6. ^ 和歌山県から三重県に跨る湾
  7. ^ 大阪市中央区千日前





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