山岳アルメニア共和国 独立

山岳アルメニア共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/15 06:40 UTC 版)

独立

ダシナク党はエレバンで反ボリシェヴィキ反乱を主導し、2月18日に権力を奪取した。エレバンは以降42日間ダシナク党の指揮下にあったが、4月には数で勝る赤軍に敗北し、反乱の指導者たちはシュニクへ逃れた。

4月26日、タテヴ英語版で開かれた第2回汎ザンゲズル会議において、ダララキャズザンゲズルロシア語版、山岳アルツァフの自治地域が山岳アルメニア共和国として独立することが宣言された。そして6月1日に国名はアルメニア共和国 (Հայաստանի Հանրապետություն) に改称された[2]。この非公認国家の首都はゴリスに置かれ[3]、ヌジュデは首相と国防相に選出された。その後は7月にシモン・ブラツヤン (hy) が首相となり、ヌジュデは知事兼軍総司令官となった。

ヌジュデはザンゲズルをアゼルバイジャン人から取り戻すことに注力し[4]、一方の赤軍は4月から7月にかけて大規模な軍事作戦を展開し北と東からシュニクを攻撃した。その後、ソ連が山岳アルメニアをアルメニア・ソビエト社会主義共和国の一部として残すことを約束したため、数か月にわたる熾烈な戦いの末に山岳アルメニアは降伏した。

敗戦後、ヌジュデや彼の兵士たち、アルメニア第一共和国の指導者など多くの著名なアルメニア知識人は、イランタブリーズへ逃れた。

脚注

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外部リンク


  1. ^ Garegin Njdeh biography”. Njdeh.com. 2009年5月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年11月19日閲覧。
  2. ^ Mountainous Armenia Archived 2013年10月19日, at the Wayback Machine.
  3. ^ Լեռնահայաստանի 85-ամյակը նշեցին միայն Սյունիքի մարզկերտում”. Armtown.com. 2011年7月16日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年4月27日閲覧。
  4. ^ (ロシア語)Garegin Nzhdeh and the KGB: Report of Interrogation of Ohannes Hakopovich Devedjian” (1947年8月28日). 2007年10月30日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年7月18日閲覧。


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