尾張国 地域

尾張国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/07 06:35 UTC 版)

地域

鎌倉時代は、『海道記』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」とあり、この当時、弥富市津島市は、尾張国と見なされておらず、あま市甚目寺萱津)辺りから尾張国であったと考えられている。

北隣の美濃国とは現在の木曽川の一部と境川あたり、長良川の一部を国境とした。氾濫により川の流路がしばしば変わり、紛争が起きることもあった。鎌倉時代には六波羅探題の管轄下で西国の扱いを受けていた。鎌倉時代におきた承久の乱によると尾張国の範囲は尾張九瀬で認識され、前渡、印食、墨俣などの渡しを境としていた。尾張国は愛知県よりは北と西に広かった。ただし、領国支配としては美濃国土岐氏が管理していたことが多いために美濃国との記載が多い。戦国時代には多くが斉藤氏の支配下であったようだが、織田氏にとっては尾張川(現在の境川)と墨俣川(現在の長良川で羽島市小熊町より南)が尾張と認識されており天正14年までは尾張国として扱っている。木曽川は、豊臣政権時代の天正14年(1586年)に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになった。天正14年(1586年)に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる。該当するのは、岐阜市(旧柳津町の一部等)、各務原市(旧稲羽町の一部、旧川島町)と、羽島郡のほぼ全域(岐南町笠松町)、羽島市のほぼ全域、海津市(旧海津町平田町の大部分)である。「天正の大洪水」によって葉栗郡中島郡海西郡が新しい木曽川によって分断され、新流路西岸は美濃国に編入された。古事類苑によると豊臣秀吉の意向であったことが記載されている。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残る(例:愛知県一宮市加賀野井と岐阜県羽島市下中町加賀野井。愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島町河田。字は異なるが、愛知県一宮市木曽川町三ツ法寺と岐阜県羽島市正木町光法寺。) 現在の愛知県西部にありながら上記の国境変更後の尾張国に属さなかった地区に、現在の稲沢市祖父江町の一部、一宮市東加賀野井、一宮市西中野などがある。これは令制国の廃止後に、市町村の境界変遷で所属する県が移ったものである。

江戸時代では尾張国と美濃国の多くの地域は、尾張藩が中心となり細かく分割されて管理された。

  • 知多郡…「ちたぐん」と読む。元は「智多郡」と書いた。
  • 愛知郡…「あいちぐん」と読む。元は「愛智郡」と書いた。
  • 春日井郡…「かすがいぐん」と読む。元は「春部郡(かすかべぐん)」と表記。現在の春日井市や西春日井郡など。
  • 丹羽郡…「にわぐん」と読む。
  • 葉栗郡…「はぐりぐん」と読む。現在の一宮市北部、江南市北部。
  • 中島郡…「なかしまぐん」と読む。現在の一宮市南部、稲沢市。
  • 海東郡…「かいとうぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。大正期に海西郡と統合。
  • 海西郡…「かいさいぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。大正期に海東郡と統合。
  • 山田郡…「やまだぐん」と読む。戦国期に春日井郡と愛知郡に分割編入され消滅。

古事類苑』では、尾張国内には69郷が存在することが記されている。

  • 中嶋郡…美和、神戸、拜師、小塞、三宅、茜部、石作、日野、川埼
  • 葉栗郡…葉栗、河沼、大毛、村國、若栗
  • 海部郡…新屋、中島、津積、志摩、伊福、島田、海部、日置、三刀、物忌、三宅、八田
  • 丹羽郡…五鬘、稻木、上春、丹羽、穗積、大桑、下沼、上沼、前刀、小弓、小野、小口
  • 愛智郡…中村、千竈、日部、太毛、物部、熱田、作良、成海、驛家、神戸
  • 春部郡…池田、柏井、安食、山村、高苑、餘戸
  • 知多郡…番賀、贄代、富具、但馬、英比
  • 山田郡…船木、主惠、石作、志誤、山口、加世、兩村、餘戸、驛家、神戸

江戸時代の藩

尾張国の藩の一覧
藩名 居城 藩主
清洲藩 清洲城
  • 松平忠吉(62万石、1600年 - 1607年) : 無嗣断絶
尾張藩 清洲城
1607年 - 1612年
名古屋城
1612年 - 1871年
  • 尾張徳川家(47万2344石→56万3206石→61万9500石、1607年 - 1871年)
犬山藩
尾張藩附家老
犬山城
緒川藩 緒川城

注釈

  1. ^ 1887年明治20年)に尾張国に編入。
  2. ^ いずれも1887年(明治20年)に尾張国に編入。
  3. ^ 1880年(明治13年)に尾張国に編入。
  4. ^ いずれも1880年(明治13年)に尾張国に編入。
  5. ^ 1887年(明治20年)に美濃国に移管。
  6. ^ 願興寺比定地の尾張元興寺跡(名古屋市中区)の発掘調査では、10世紀以降に出土品は激減するため、この頃願興寺は廃寺に至ったと見られる。 一方、国分尼寺は史料上で11世紀初頭までの存続が確認されるため、10世紀以降は尾張国分尼寺が国分寺に転用されたとする説がある (中世諸国一宮制 & 2000年, pp. 116–117、国分寺(角川) & 1989年)
  7. ^ これを記念して名古屋城前に加藤清正像が置かれている。一度も城主になったことのない人物が銅像として設置されている珍しい例
  8. ^ 茂徳と同様に慶勝の実弟。高須四兄弟の一人。
  9. ^ 幼少時の徳川家康を預かった圧田の名家(東加藤家)。
  10. ^ 当初、伊勢国における伊勢神宮と同様に別格で一宮とされなかったが、一宮・二宮が定められた後に三宮として追加されたという説、単に国府から遠かったためとする説、真清田神社の積極的な運動によって一宮になったとする説、一宮制度導入時に国司と熱田神宮が対立していた説など。
  11. ^ 中島郡加賀野井村。

出典

  1. ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、19頁。
  2. ^ 鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。
  3. ^ 田中卓「尾張国はもと東山道か」『田中卓著作集6』(国書刊行会、1986年/原論文:1980年)
  4. ^ a b c 3章 尾張国分寺跡の概要(稲沢市) & 2014年.
  5. ^ a b 中世諸国一宮制 & 2000年, pp. 116–117.
  6. ^ 吾妻鏡 吉川本 建長四年三月.
  7. ^ 河村昭一「一色氏の分国・分郡における守護・〈郡主〉在職期間」『南北朝・室町期一色氏の権力構造』戎光祥出版、2016年。
  8. ^ a b 名古屋開府400年記念事業実行委員会『尾張名古屋大百科』 p150-155
  9. ^ a b 廣江安彦/堀内守『知多半島なんでも事典』新葉館出版 p106-107
  10. ^ 知多の山車館
  11. ^ 稲沢市教育委員会編『近世村絵図-解説図』、稲沢市教育委員会、1982、p66
  12. ^ a b 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 113-114。
  13. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 102-113。





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