国鉄オハ31系客車 概要

国鉄オハ31系客車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 04:43 UTC 版)

概要

1926年大正15年)9月23日山陽本線安芸中野 - 海田市間で、折からの雨が原因で築堤が崩れて特急列車が脱線転覆し、34名が死亡する大事故が発生した(山陽本線特急列車脱線事故参照)。事故の被害が拡大した原因の一つが木造客車の脆弱性にあると考えられたため、鉄道省は翌年度から木造客車の製造を中止して鋼製客車の製造に切り替えることとして本系列が設計されたとも言われるが、鉄道省工作局の朝倉希一によると「(世界的に鋼製が主流になり、我が国の電鉄会社でも採用した所もあったので[注釈 1])そこで大正13年、私が車両課長となると、鋼製車に経験のある日本車輛会社川崎車輛会社の意見を聞いて鋼製車を設計し、大正15年から実施した。」とのことで、この事故の前から計画があったとしている[2]

いずれにせよ1927年(昭和2年)3月に先行試作車4両(オハ31形2両とオロ30形2両)が竣工し、同年8月に量産車の第一陣が竣工した。

なお製造当初、「鋼製客車と木造客車を併結すると事故時に鋼製車は助かっても木造車の被害が逆に拡大するのではないか」という懸念から鋼製車は鋼製車のみで編成を組むべきではないかという意見もあったが、後に木造車は木造車と衝突するより鋼製車と衝突した方が安全であると実際の事故で立証され[注釈 2]、杞憂に終わった[3]

車体

素材こそ鋼製に変わったものの、車体構造は木造制式客車の最終形であるナハ23800形などとほとんど変わらなかった。

つまり、魚腹式の強固な台枠を備え、その上に鋼材によるを組立てて、そこに外板をリベットを用いて打ち付ける、という従来通りの構造設計が採られており、当初は重いアンチクライマーが車端部に取り付けられるなど、自重軽減に配慮した形跡は見られない。

これについて朝倉希一は「移行を容易にするため、初めは柱を形鋼とし、屋根も従来のままとした[注釈 3]。」としており、それでも外皮が鋼板だと外気温や日射の影響を受けることが多いので、木造時代とは異なり、内側に熱断熱材として馬毛フェルトを使用するなどの差異はあった[2]

車体長は2軸ボギー車は17 m、優等車を中心とする3軸ボギー車は20 mで、台枠は原則的には17 m級の一般型がナハ23800形のUF15の設計を継承するUF17、荷物車用がUF18形、20 m級の一般型がUF44形、荷物車用がUF46形で、いずれも台車中心間の中梁が大きく膨らんだ魚腹台枠となっている。

主要機器

台車

台車は木造車時代以来の明治45年型を基本とするTR11 - TR13形(2軸ボギー台車)およびTR71形・72形(3軸ボギー台車)で、いずれも本来は船舶用として八幡製鉄所が製造供給していた球山形鋼(バルブアングル)を側枠に使用する、イコライザー式台車である。なお、汎用2軸ボギーのTR11形と合造車用2軸ボギーのTR12形、同じく優等車用3軸ボギーのTR71形と荷物車用3軸ボギーのTR72形は基本的にはそれぞれ同一設計で、TR12形・TR72形では輪軸が10 t長軸からより高強度の12 t長軸に変更されている。さらに、荷物車用2軸ボギーのTR13形では12 t長軸を用いるTR12形を基本としつつ、側梁の補強やつりあいバネの強化などによって大荷重に耐えられるよう設計変更がなされている。

ブレーキ

自動空気ブレーキ装置は当初、ウェスティングハウス・エア・ブレーキ (WABCO) 社の設計によるP弁を使用するPF・PMブレーキ装置であったが、量産中にブレーキ弁が変更されており、日本エヤーブレーキ社の手によって1928年(昭和3年)に開発・実用化されたA動作弁[注釈 4]を使用するAVブレーキ装置が1929年度分より制式採用され、P弁を搭載する在来車についてもこの新型ブレーキへの換装を実施して階段緩め機能の付加など、保安性の向上が実現している。これも特急列車脱線事故の残した影響の一つであった。


注釈

  1. ^ 朝倉は具体名を挙げていないが、日本の半鋼製車両第1号は1923年大正12年)の川崎造船で製造された神戸市電200形、全鋼製車第1号は1925年(大正14年)の阪神急行電鉄500形[1]
  2. ^ 事故の衝突にはさまざまな形態があるが、特にひどいのが、木造車でも鋼製である台枠が「衝突で飛び上がった際に隣の車両に突き刺さる場合」で、木造車同士の場合、木の柱がこれに耐えられずに折れて木造部がお互い入り込むが、鋼製車の場合、妻面全体で激突するので車体同士が入り込む危険がないため。
  3. ^ その後工場の準備が整い、柱は薄板の折り曲げ、屋根も鋼製になったが内部の化粧張は木造のままだった。
  4. ^ P弁後継となるこのブレーキ弁は、鉄道省から日本エヤーブレーキ・三菱造船所の2社に対し、競作による開発指示が出されていたものである。日本エヤーブレーキによる試作品は同年8月に完成し、その後同年度中に鉄道省側での実用試験を完了して制式化された。A動作弁は機能的には当時のWABCO社製電車・客車用ブレーキ弁の最高級品であったU自在弁の簡略化版に当たり、U弁ほどの長大編成対応や高速応答性能は得られないが、その代償として機構が大幅に簡素化されるため、保守時に使用する旋盤さえ満足に普及していなかった当時の日本の国情に良く適合する、というメリットがあった。
  5. ^ 『決定版昭和史 第6巻』(毎日新聞社、1984年)で車番が判読できる。
  6. ^ スシ37形食堂(写真2-21)にある片持灯の裏側に位置する部品[4]
  7. ^ このうち、スニ30 96は改番前の1941年9月16日山陽線網干駅列車衝突事故により廃車されており、旧番号のスニ30661からスニ30 96への改番は書類上の処理のみ[要出典]
  8. ^ スヤ39 2の車内写真では、テーブルや椅子は省略され、配膳口とストーブのみ設置されている[9][10][11]
  9. ^ 帝国鉄道庁オハ225(1908年に帝国鉄道庁新橋工場で製造された、当時最新鋭の木造3軸ボギー式三等座席車)をルーツとする木造雑形荷物車。

出典

  1. ^ (福原2007)p.74-77「2-1 鋼製車体と電動発電機の誕生」
  2. ^ a b (朝倉1980-1)p.106
  3. ^ (朝倉1980-1)pp.106 - 107
  4. ^ 『スハ32800形の一族』上巻、p.170
  5. ^ 鉄道ピクトリアル1970年9月号、pp.20 - 21
  6. ^ 鉄道ピクトリアル1970年9月号、p.22
  7. ^ 『運輸公報』1948年10月16日『「スイネ39 1」及びスイテ47 1号車の取り扱いについて』。
  8. ^ a b 『特別職用車』p.19、『国鉄客車1950』p.76。
  9. ^ 『オハ31形の一族』下巻、p.163(写真9-13 - 17
  10. ^ 『最近10年の国鉄車両』pp.438 - 439
  11. ^ 『日本の客車』p.253(写真564 - 566)
  12. ^ 古沢明・近藤明徳「日立製作所水戸工場の通勤車」『鉄道ファン』No.76






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