吉葉山潤之輔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/31 07:08 UTC 版)
主な成績
通算成績
- 通算成績:357勝171敗1預79休 勝率.676
- 幕内成績:304勝151敗1預79休 勝率.668
- 横綱成績:109勝67敗73休 勝率.619
- 大関成績:109勝34敗1預6休 勝率.762
- 現役在位:47場所
- 幕内在位:37場所
- 横綱在位:17場所
- 大関在位:10場所
- 三役在位:2場所(関脇2場所、小結なし)
各段優勝
- 幕内最高優勝:1回(全勝)(1954年1月場所)
- 同点1回、次点5回
- 幕下優勝:1回(1942年5月場所)
三賞・金星
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1938年 (昭和13年) |
x | x | (前相撲) | x | x | x |
1939年 (昭和14年) |
東序ノ口12枚目 2–5 |
x | 西序二段68枚目 6–2 |
x | x | x |
1940年 (昭和15年) |
西序二段13枚目 7–1 |
x | 東三段目30枚目 7–1 |
x | x | x |
1941年 (昭和16年) |
東幕下29枚目 7–1 |
x | 西幕下5枚目 3–5 |
x | x | x |
1942年 (昭和17年) |
東幕下13枚目 5–3 |
x | 東幕下筆頭 優勝 7–1[注 4] |
x | x | x |
1943年 (昭和18年) |
x | x | x | x | x | x |
1944年 (昭和19年) |
x | x | x | x | x | x |
1945年 (昭和20年) |
x | x | x | x | x | x |
1946年 (昭和21年) |
x | x | x | x | x | x |
1947年 (昭和22年) |
x | x | 東十両4枚目 9–1 |
x | x | 東前頭13枚目 8–3 |
1948年 (昭和23年) |
x | x | 東前頭7枚目 8–3 |
x | 東前頭2枚目 5–6 ★ |
x |
1949年 (昭和24年) |
東前頭3枚目 7–6 |
x | 東前頭3枚目 2–13 |
x | 東前頭10枚目 10–5 |
x |
1950年 (昭和25年) |
東前頭3枚目 10–5 殊★ |
x | 東前頭筆頭 10–5 殊 |
x | 東張出関脇 13–2[注 5] 殊 |
x |
1951年 (昭和26年) |
東関脇 13–2 |
x | 西大関 10–5 |
x | 東大関 9–5 (預1) |
x |
1952年 (昭和27年) |
西大関 12–3 |
x | 東大関 10–5 |
x | 西大関 12–3 |
x |
1953年 (昭和28年) |
西大関 6–3–6[注 6] |
西大関 10–5 |
西大関 14–1 |
x | 東大関 11–4 |
x |
1954年 (昭和29年) |
東大関 15–0 |
西横綱 休場 0–0–15 |
西張出横綱 0–1–14[注 7] |
x | 西張出横綱 11–4 |
x |
1955年 (昭和30年) |
西横綱2 5–2–8[注 8] |
東張出横綱 3–2–10[注 9] |
西張出横綱 0–2–13[注 10] |
x | 西張出横綱 9–6 |
x |
1956年 (昭和31年) |
東張出横綱 9–6 |
西横綱 11–4 |
東横綱 8–7 |
x | 東張出横綱 12–3 |
x |
1957年 (昭和32年) |
西横綱 10–5 |
東張出横綱 3–3–9[注 11] |
西張出横綱 5–6–4[注 12] |
x | 東張出横綱 9–6 |
西横綱 11–4 |
1958年 (昭和33年) |
西横綱 引退 3–6–0 |
x | x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
注釈
- ^ その後、本来入門する予定だった新弟子は上京を中止している。
- ^ 現在では、普段は上位と対戦することがまず無いであろう下位の力士でも、時津山のように好成績を挙げていれば終盤に関脇以上の上位力士と組まれることがあるが、当時の下位力士は何番勝っても上位力士と対戦することが考えられず、大関の吉葉山としては阻止する術が無かった。ちなみに吉葉山は、その時点で時津山とは4回対戦して全勝していた。
- ^ 成長途上に兵役へとられた悲運、その兵役中に受けた銃弾が尾を引いて大事な場面でケガに泣く悲運、所属部屋の規模の悲運、鏡里喜代治と比べて強豪と当たることの多かった(当時は系統別総当たり制だが、部屋によって対戦相手に違いがあった)悲運、照國との優勝決定戦で敗れて大関昇進が即決されなかった悲運、14勝を挙げながら平幕下位の時津山に全勝で優勝をさらわれる悲運。
- ^ 場所後応召
- ^ 照国と優勝決定戦
- ^ 右足首関節捻挫により9日目から途中休場
- ^ 左足首関節捻挫により初日不戦敗
- ^ 右足首関節捻挫により7日目から途中休場
- ^ 左人差指中基部裂傷により5日目から途中休場
- ^ 左足首関節捻挫により2日目から途中休場
- ^ 左足リスフラン関節捻挫により6日目から途中休場
- ^ 左足首関節捻挫・左膝関節打撲により11日目から途中休場
出典
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