吉備高原都市 吉備高原都市の概要

吉備高原都市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 03:15 UTC 版)

吉備高原都市
センター区のサンサン広場
発表者 岡山県
発表国 日本
発表年 1973年
分野 計画都市
現在の状況 中断
発表内容 吉備中央町(当時:賀陽町加茂川町)の境に位置する1800haの地域の開発。
ウェブサイト 公式サイト
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概要

成り立ち

吉備高原都市とは1973年(昭和48年)に当時の岡山県知事・長野士郎が岡山県総合福祉計画の中で打ち出した構想で、岡山県のほぼ中央部に横たわる吉備高原のうち、御津郡加茂川町上房郡賀陽町の境に位置する1,800ha東京都新宿区の面積に匹敵)の地域(現:吉備中央町)に自然環境や風俗伝統文化を生かしながら、保健福祉・文化・教育などの機能を中心とした新しい都市を標榜・計画されたものである。

基本計画では、新都市の区域を福祉のむらや総合リハビリテーション施設などを配置する「保健福祉区」と国立少年自然の家や農林業実践学習の里などを配置する「自然レクレーション区」、それに「研究学園区」「産業区」「センター区」「住区」「農用区」の7つのゾーンに分け、環状道路で機能的に結び整備することになっている。前期(432ha)と後期(880ha)に分けて進められ完成年次は1995年(平成7年)(当初は1990年(平成2年))、人口は3万人とされ1981年(昭和56年)に都市本体の整備が始まった。1993年(平成5年)までに前期計画区域全域と、1997年(平成9年)に後期計画区域のうちAゾーンを併せた612haが整備完了している。

その後と現状

空き地の目立つ分譲住宅地

1996年(平成8年)に任期満了で引退した長野知事の後を引き継いだ石井正弘知事が逼迫する県財政の建て直しに着手、莫大な建設費のかかる吉備高原都市も見直しの対象とされた。1997年(平成9年)11月策定の行財政改革大綱により、まず後期計画B、Eゾーンの建設が凍結された。そして、整備済みの住宅地や産業施設用地の分譲完了と整備済区域の熟度が高まった時点で、改めて整備内容の検討と事業主体や整備手法の見直しを行うこととされ事実上未整備地区の全事業が凍結されている。

整備済みの地区では都市の核施設である『きびプラザ』、幼稚園、小学校、警察駐在所、消防署等の公共施設の設置やCATVケーブルを埋設するなど都市機能の充実が図られてきた。しかし、センター区から離れた最後に完成した後期Aゾーンの高原住区では空き地が目立ち、職場を提供する産業区も多くが売れ残り、整備済地区の計画人口7,000人対し、2,000人程度にとどまっている。県の調査でその要因として住区の分譲地は岡山市近郊と同水準の分譲価格設定となっていることが敬遠され、高齢者や障害者のための「保健・福祉・文化のセンター」を標榜しているにもかかわらず、公共交通機関が未発達であるため[注釈 1]マイカー無しではかなりの不便を強いられる生活を余儀無くされることなどがあげられている。

吉備中央町による整備計画

2004年(平成16年)、平成の大合併により御津郡加茂川町と上房郡賀陽町が合併し加賀郡吉備中央町が発足。都市を中心にした町づくりを掲げ、センター区に一部の行政機能を移転しイベント等も開催するなどの都市と町の一体化を進める政策を進めている。政策の一つに将来役場を都市内に移転する構想があるが、町の財政難により具体的な計画には至っていない。また、先端技術を導入した街づくりを目指しすスーパーシティ構想[1][2]や、岡山市倉敷市を結ぶ新交通システムやボールパークを建設するなどの構想もある。

沿革

年表

  • 1973年昭和48年) - 岡山県が吉備高原地域の新都市構想を発表。
  • 1975年(昭和50年) - 岡山県が基本構想を作り、同年に用地取得を始める。
  • 1977年(昭和52年) - 岡山県が建設基本計画を作成。
  • 1981年(昭和56年) - 新都市起工式が行われる。吉備新線・新都市~国道429号(岡山市北区掛畑)間開通。
  • 1984年(昭和59年) - 高度技術工業集積地域開発促進法(テクノポリス法)により吉備高原地域がテクノポリスに指定される。
  • 1987年(昭和62年) - 吉備環状線の一部、公共下水道等が供用開始。
  • 1990年平成2年) - 岡山県土地開発公社吉備高原現地用地事務所設置[3]
  • 1991年(平成3年) - 岡山県や地域振興整備公団等の出資による管理会社「株式会社吉備高原サービス」設立。
  • 1992年(平成4年) - 吉備新線・岡山空港~新都市間(岡山市北区掛畑~石妻)開通。第2期吉備高原地域テクノポリス開発計画承認。
  • 1993年(平成5年) - 前期計画区域の基盤整備事業が完了。
  • 1996年(平成8年) - 吉備新線の全面供用開始(岡山市北区田益~新都市間)
  • 1997年(平成9年) - 後期計画区域のうち、Aゾーンの基盤整備事業が完了。岡山県行財政改革大綱により、B、Eゾーンの新規事業着手を3カ年延期。
  • 1998年(平成10年) - 岡山県土地開発公社吉備高原現地用地事務所閉所[3]
  • 2000年(平成12年) - 吉備高原都市整備検討委員会発足。
  • 2002年(平成14年) - 「吉備高原都市の今後の整備方針」を決定。新規事業は事実上の凍結。

注釈

  1. ^ この地域は鉄道空白地帯であり、バス路線も県内の他のニュータウンである山陽団地岡山ネオポリスと比較すると、バス路線の輸送力は脆弱である。

出典



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