人取橋の戦い 背景

人取橋の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/07 07:30 UTC 版)

背景

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、織田信長天下統一を目前にして倒れた。伊達輝宗は南奥諸大名の洞の中央集権化をはかり、相馬盛胤義胤を攻め祖父・伊達稙宗[注釈 4]の隠居領・伊具郡を奪還した。

天正12年(1584年)10月6日、蘆名盛隆が死去し、当主を失った蘆名家は内紛の危機に直面した。このとき塩松領の小浜城主・大内定綱は政宗の正室・愛姫の実家である田村氏と対立を深めていた。塩松領は伊達領二本松領田村領相馬領に囲まれた緩衝地帯である。同10月、父・輝宗から家督を譲られた伊達政宗は定綱に伊達家への臣従を迫った。定綱は臣従を拒み、蘆名家を頼って反旗を翻した。

天正13年(1585年)5月、政宗は蘆名氏を攻め敗北を喫した。7月、羽柴秀吉関白となり豊臣姓を名乗った。8月、政宗は大内定綱を塩松領に攻め、定綱は二本松領、蘆名領へ逃れた。政宗は定綱と姻戚関係にあった二本松城二本松義継に対しても攻撃を加え、義継は輝宗の斡旋を受けて降伏した。

10月8日、義継は宮森城にて会談中に輝宗を拉致し、政宗の追っ手によって輝宗と同時に討たれた。

父の元より前日に飛脚が来て、本日帰還すると聞いていた義継の遺児、国王丸は喜び勇み、これを迎えようと阿武隈川の辺りまで出向いたが、軍勢が鉄砲の音を立てて迫ってくるのを見て驚いた。二本松氏は義継の従弟・新城盛継を中心に国王丸を擁して籠城戦の展開をはじめた。まず佐竹会津両所へ急使をもって通達し、二本松の支城本宮・玉の井[注釈 5]・渋川[注釈 6]の三ヵ所をあけ、その人数を二本松に集めた[1]

10月15日、政宗は父の初七日が明けると、正室愛姫の父田村清顕、輝宗の弔い合戦として加勢の要請を承諾していた[2]相馬義胤とともに13,000の兵を率いて二本松城攻めを開始した。

11月2日[1] 、二本松氏救援のため佐竹義重義宣[注釈 7]蘆名亀王丸[注釈 8]二階堂阿南[注釈 9]岩城常隆[注釈 10]石川昭光[注釈 11]白川義親義広[注釈 12]ら南奥諸大名[注釈 1]が挙兵・派兵して集結した[1]

11月10日、連合勢は須賀川まで進出。

この時、「篠川日出山小荒田郡山」[注釈 13]田村氏の領地であり、佐竹義宣原文ママ)が布陣した地に「窪田」(窪田城)とある[2]。伊達政宗を援けて二本松城攻めに参加していた相馬義胤は石川、白川、須田伯耆(月見館)などが寝返る風聞が立ったため、これを大事として帰陣していた[注釈 14][2]。また田村清顕は家臣田村右近大夫が居住する阿久津(郡山市阿久津)の巳午の方角(南南東)の行合(行合寺付近か)に布陣した[2]

連合軍接近との報を受けた政宗は、二本松城の包囲部隊を残して自軍の諸城を固めた上で、自らは主力7,000を率いて迎撃のため岩角城を経て本宮城に入った。


注釈

  1. ^ a b 連合軍側の大名家当主はそれぞれ不出馬という説もある。
  2. ^ 伊達晴宗の長男は大館城岩城親隆。岩城常隆の父。
  3. ^ この戦における伊達政宗米沢城)と岩城常隆大館城)の関係はともに奥州探題伊達晴宗の孫であり同年代。最上義光山形城)と佐竹義重太田城)から見ればともに同士の戦いである。
  4. ^ 相馬盛胤から見ても母方の祖父である。
  5. ^ 安達郡大玉村玉ノ井
  6. ^ 安達郡北部
  7. ^ このとき佐竹義重正室は、伊達晴宗の娘。伊達政宗からみた叔母であるため連合勢の引き揚げはこの人物が間に入って陳謝したためともいわれる。
  8. ^ このとき蘆名亀王丸は二階堂盛義の孫。蘆名盛隆の嫡男。二階堂盛義の嫡男・盛隆が蘆名家の家督を相続したことにより、蘆名領・二階堂領は一体化されていた。
  9. ^ このとき二階堂阿南は二階堂盛義の正室。蘆名盛隆の母。蘆名亀王丸の祖母。須賀川城主。
  10. ^ このとき岩城常隆正室は二階堂盛義の娘。母は佐竹義重の妹。
  11. ^ このとき石川昭光は佐竹義重の婿。伊達晴宗の実子・伊達輝宗の弟。
  12. ^ 白河郡白川郡石川郡をめぐる蘆名氏と佐竹氏の折衝の末、義親は蘆名盛氏の娘と離縁していた。天正6年(1578年)の和議の後、白川の名跡は佐竹義重の次男・義広が継ぎ[3]、義親は佐竹義重の養女が与えられて佐竹一門となったという[4][5]
  13. ^ 「篠川日出山小荒田郡山」として比定されるのは「篠川=郡山市安積町笹川東舘篠川館跡」、「日出山=郡山市安積町日出山」、「小荒田=旧安積郡小原田村?」、「郡山=旧安積郡郡山町 (福島県)
  14. ^ 相馬勢が佐竹蘆名連合軍に加わった布陣図が見られる。「相馬と伊達の戦争年譜」[6]には天正12(1584年)〔ママ〕、伊達の攻勢に備え、佐竹、葦名、岩城、石川、白河の諸侯と連絡を密にして、(後の)安達郡人取橋で戦った。」と記述がある。
  15. ^ 討ち取ったのは岩城常隆の家臣である窪田十郎。

出典

  1. ^ a b c 「奥羽永慶軍記」校注 今村義孝
  2. ^ a b c d 『奥相茶和記』
  3. ^ 早稲田大学白河文書『白河市史五』
  4. ^ 「戸部一閑覚書」
  5. ^ 「佐竹旧記」
  6. ^ 『原町市史』1990年
  7. ^ 垣内和孝「御代田合戦と佐竹氏・蘆名氏」(『福島史学研究』第90号、2012年)


「人取橋の戦い」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「人取橋の戦い」の関連用語

人取橋の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



人取橋の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの人取橋の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS