井伊直政 人物・逸話

井伊直政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 14:28 UTC 版)

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名井伊氏第20代当主[注釈 4]上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国彦根藩の初代藩主。


注釈

  1. ^ 幼名は井伊虎松(とらまつ)
  2. ^ 天正16年(1588年)4月14日(旧暦)の後陽成天皇聚楽第行幸に先立ち、これに伺候する徳川家康の家臣・井伊直政、同・大沢基宥にも侍従職が任ぜられた[1]
  3. ^ a b 江戸時代中期、享保15年(1730年)に著された『井伊家伝記』では、次郎法師(井伊直虎)を直政の「養母」と表現するが、江戸時代には実子でない家督相続は養子関係を結んだことから、「養母」とは直政の前代の当主という意味と理解できる。実際には、直虎と直政の間に実母に代わる母子関係があったわけではない。
  4. ^ 『寛永諸家系図伝』以来、江戸時代の井伊氏系図類では、初代・共保から17代目に直政をかぞえる。幕末に国学者・長野義言が作成した「訂正井家御系図案」で、南北朝期の人物ら7名を追加して、直政を24代とした。
  5. ^ 奥山親朝の娘(朝利の妹)との説もある[3]
  6. ^ 虎松(直政)の養母・直虎の生母。
  7. ^ 虎松の祖父・井伊直満とは兄弟(義兄弟とも)。虎松の大おじにあたる。
  8. ^ 天正12年2月27日付の口宣案写(彦根城博物館所蔵、野田 2017, p. 85)では、「兵部太輔藤原直政」を修理大夫に任じると記すが、井伊の署名では「兵部大輔」としたものは見あたらず、実際は「兵部少輔」であった。
  9. ^ 小牧・長久手の戦いののち、京の人々が直政を赤鬼と名付けたという[5]
  10. ^ 野田 2017, p. 86に口宣案写(彦根城博物館所蔵)の写真掲載。ただし野田はこの日付は書面上のもので、系譜史料の記述などから実際の授与は聚楽行幸前と推定する。
  11. ^ 直政が、豊臣政権の中の官位序列で徳川家臣筆頭の侍従を得た理由は、徳川家臣団の中で直政は親族・一門の扱いを受け、他の徳川家臣より上位の格式に位置づけられたためと考えられる。それは、もともと井伊は徳川と対等な家格で、築山殿を介して親族関係にあったためとされる。家康は、直政の交渉能力や出自を考えて、徳川家臣団の筆頭に位置づけた[9]
  12. ^ 7月7日付で家康から諸将宛に出されている軍法の第4条で抜け駆けは厳禁されており、そもそも合戦開始時においても、合戦後においても正則側から家康に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、直政の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、正則の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されている[12]
  13. ^ 直政自身は和平交渉が完全に終了する前に没したため、その後の仲立ちは本多正信が引き継いだ。
  14. ^ 従四位下に叙されたのは天正16年(1588年)4月とする文化2年(1805年)に時の彦根藩京都留守居役が禁裡御所御役方より得た旧記(古文書)がある[15]
  15. ^ 甲陽軍鑑』には「万千代(直政)、近年家康の御座を直す」とあり、「御座を直す」は、主君の伽(とぎ)のお相手をする隠語である。
  16. ^ ここで伝えられる醤油は、味噌を作る際の「たまり」である。現在のような醤油が作られるようになったのは江戸時代になってからである。
  17. ^ 近藤秀用は出奔後、家康からは10年間許されず、その旗本復帰も徳川秀忠や池田輝政のとりなしによる。
  18. ^ なお、小宮山は別の論文で榊原氏庶流の出身であった榊原康政にも類似性を見出している。

出典

  1. ^ 徳川実紀 巻三』67-68頁、「聚楽第行幸記」(『続群書類従 第三輯・巻第四十一』608頁)
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 77頁。
  3. ^ 『寛政重修諸家譜 第4集』, p. 1112
  4. ^ a b c d 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、23頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  5. ^ 『新編 藩翰譜 第一巻』458頁
  6. ^ 遠藤珠紀「徳川家康前半生の叙位任官」『日本歴史』803号、2015年。 
  7. ^ 野田 2017.
  8. ^ 桐野作人「徳川四天王・井伊直政」『さくま人国誌』。
  9. ^ 野田浩子「徳川家康の家中序列構想―徳川一門衆としての井伊直政―」(PDF)『彦根城博物館だより』111号、2015年。 
  10. ^ a b 村川
  11. ^ 野田 2007.
  12. ^ a b 笠谷 2000, pp. 69–73.
  13. ^ 野田 2007。典拠史料は「井伊直政書状写」(『鈴木文書』(東京大学史料編纂所所蔵影写本))
  14. ^ 野田 2007。典拠史料は「真田家武功口上之覚」(『真田家文書』中巻、1982年)
  15. ^ 井伊達夫『井伊軍志』(新装版)宮帯出版社、2007年、107頁。 
  16. ^ 湯浅常山 原著・湯浅元禎 編 『常山紀談』〈日本名著文庫〉、聚栄堂、1921年、国会図書館東京本館蔵、請求番号:YD5-H特103-89
  17. ^ なかむら, p. 126.
  18. ^ なかむら, p. 122.
  19. ^ 小宮山敏和「井伊直政家臣団の形成と徳川家中での地位」『学習院史学』40号、2002年。 /所収:小宮山敏和『譜代大名の創出と幕藩体制』吉川弘文館、2015年。ISBN 978-4-642-03468-5 [注釈 18]
  20. ^ 『藩翰譜 第一巻』466頁


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